跳慮跋考

興味も思考も行先不明

杞人多重世界を憂うや否や

偶には自分の妄言でも話しましょう。

極微の世界を扱う物理学として今日量子力学が確立されている訳ですが、量子力学ではその根幹に於いて当代あらゆる物理学者を悩ませる不可思議な言明を含んでいるのであります。
即ち、電子等々の粒子が微小世界で織り成す非古典的な振る舞いを波として見事に記述したのが先駆者シュレーディンガーの功績だったのですが、実験によれはこの「波動」というのは人間が観測したその瞬間まるで粒子に転じたかの様に「収束」してしまう挙動を示すのです。
古の人間原理を掘り起こしてしまったかと思わんばかりの奇妙な話ですが、これ以上の巧い理論も出てこないので仕方ありません……と思いきやエヴェレットにより「多世界解釈」と呼ばれる考え方が提出されます。
これは詰まるところ「世界は全事象の確率1を分け合っている」という様な話で、例えばある粒子が半分ずつの確率で崩壊した状態と崩壊していない状態の重ね合わせとなっていれば、それを観測した人も半分ずつに分かれて「崩壊したのを観測した人」と「崩壊していないのを観測した人」に分かれると謂います。何だか重ね合わせ状態が「伝染」する様にも思われます。
何れが真やら知れぬ話ですが、兎角この解釈に従えば天地開闢の初め以来今いる世界というのは途方もない数分岐した末だという事になります。否この私は、というべきなのでしょうか。まあどちらであれ現在進行形で単調減少中の低確率人生を送っていると言えましょうが、であればしてこの確率というのがその内0になってしまわないかという事を考えたりするのです。
妙な事をと思われるかもしれませんが、それほど無根拠という訳でもありません。
例えば、ゼノンの逆理という有名な話の現代物理学的な教訓は「時空は無限に分割し得ない」という事ですが、ならば時間にも長さにも最小単位がある訳でプランク時間プランク長さというのが正しくそれです。別にこれらは時空自体が離散的と主張するのではありませんが、しかし物理学からしてもよく分からなくなる閾値が存在するという事です。
人間はやはり恒久不滅の世界を願うものでありましょう。物理学の歴史を数十年縮めたと謳われる彼のアインシュタインですら膨張し収縮する、始まり終わる宇宙を忌避し、後に自ら「人生最大の過ち」と語るところの宇宙項を己が名を冠する方程式へ書き込んでしまうのであります。
そう、長々と書いたのではありますがこんなよく分からない話をせずとも我々の愛し憎むべき宇宙は「熱的死」やら「ビッグリップ」やらに脅かされている訳で、先行き不透明な科学世紀は未だ未だ続く趨勢と見えます。想うは易く得るは難き永遠。
嗚呼、知恵の実が生命の樹を生む日はいつならん!