跳慮跋考

興味も思考も行先不明

共感能力に欠く人間の弁明

〈この物語は事実を基にしたフィクションです。〉
的な注意書きを見かける事がある。『月光の夏』だとか『電車男』だとか。
というのは恐らく、ノンフィクションと銘打ちながら脚色があったりすると「騙された!」だのと騒ぐ人が居るからなのだろうけれど、では「フィクションに対する感動」と「ノンフィクションに対する感動」は果たして別物なのだろうか、と私は思う。

「物語に於ける死」とは「現実に於ける死」よりも軽いのだろうか? 両者は異質でありその境は侵されざるべきものなのであろうか? 私にとってその答は全き否である。
仮令物語の中であろうと人が傷付き悲しめばその分心は暗く沈む。時には本を読んで一週間くらい鬱々としたり。
寧ろ逆に、「現実」の情報の方こそ無感動に受け取ってしまう。地球の裏側での大災害。へぇそうか。知らない土地の知らない人々が苦しむ姿、それにどれ程の実感がある? 国内だろうと変わりはしない。報道の映像はまるで映画の一場面の様だ。それは「本当にあった事」なのか?
私にとって「知らない土地」なんていうのは物語の舞台と何ら変わりはない。この目で見、この手で触れる事だけが存在証明となる。だがそれは、作家の精神活動と何ら違わないのではないだろうか。彼等は彼等の中の世界を見、触れて物語と成すのだ。決して創造主としてではなく、一人の語り部として。そして物語が共有された時、その世界は「実在」せずして何だと謂うのか。
私にとっての「現実」とは、つまりその程度のものなのだ。この手が届く小さな世界。あなたはそこにいますか?