跳慮跋考

興味も思考も行先不明

θリズムと時系列の符号化

先日『理工学系からの脳科学入門』(東京大学出版会、2008)を読んでいたところ、第 4 章(山口陽子氏による)に於いて「海馬のシータリズム位相コード仮説」なる興味深い話が出て来たのだが如何せん記述が解り難く、結局その筋のレビュー論文を参照する羽目になった。
内容としては面白いしまぁ折角なので、2013 年のレビュー*1と脳科学入門の内容を織り交ぜて海馬とθリズムの話を纏めておく事にする。

海馬の構造

この辺りは 海馬 - 脳科学辞典東京都神経研: 記憶 を参考にした。
海馬(hippocampus)は下図の通り側頭葉の内側に存在し、記憶の形成に重要な事は H.M. 氏の症例以来よく知られている。


Anatomography により作成*2
また海馬は輪切りにする(前額面で切る)とどこも同じ様な構造になっていて、非常に適当に模式的に描くと
f:id:quinoh:20140715190119p:plain:w300
GIMP にて作成)
の様になっている。
CA1 や CA3 等はアンモン角(cornu ammonis)と呼ばれ、歯状回(dentate gyrus)にめり込む形を取る。
CA2 は CA1 と CA3 の間辺りを指し、また人間の脳ではラット等と比べてアンモン角のめり込みが激しく、その先の方を CA4 と呼ぶらしい。
アンモン角と歯状回の総称が海馬である。

空間位置の脳内表現

ラットを初めとして齧歯類の海馬には場所細胞(place cell)と呼ばれる神経細胞が存在し、特定の場所を通る時にのみ活動する。
例えば迷路に入れられたラットは動き回る内に、それぞれの道を通る時だけ活動する神経細胞が形成されてゆくのである。
以下に登場する実験では、この位置細胞が重要な役割を果たす。

情報のサンプリング

ラットの脳に於いてθリズム(theta rhythm)なる脳波は運動時に発生する事が知られているが、その振幅は受動的よりも能動的な運動で大きくなる。
またθリズムの周波数はラットの尻尾を振る、匂いを嗅ぐといった行動、更に人間ではサッカード(跳躍性眼球運動)の頻度と一致しているという。
海馬が様々な感覚情報の終着点にある事も考え合わせると、海馬はθリズムの 1 周期を単位とした感覚情報の離散化を行っているのではないか、という事が推察される。
この仮説は 2 つの実験によって支持されている。

第一に、ラットの置かれた環境を急に変化させて CA3 の位置細胞の活動を測定した実験では、前の環境に対応する細胞と今の環境に対応する細胞が数秒に亘り交互に活動する現象が見られ、その活動はθリズムの周期によりほぼ完璧に分離されていた。

第二に、T迷路を動くラットで CA1 の場所細胞の活動を測定した実験では、長い道ほどθリズムの周期も長くなる事が分かった。これはθリズムの周期が個別の道を処理する単位になっている事を示唆する。
また迷路には幾つか目印になる地点が設定されていたのだが、θリズムの 1 周期が表現する道は目印に近付いている場合より背後の空間を、遠ざかる場合はより前方を広く表現しており、「さっき通ったところから次の目的地まで」といった様な課題に関連する道の情報が 1 周期へ目的指向的に纏められていると考えられる。

これらの知見を綜合すると、海馬は刻一刻と送られて来る情報をθリズムの周期毎に統合し、一つの「状況認識」を形成していると言えるのではないだろうか。

時系列の符号化

迷路の中のラットについては、もう一つ興味深い現象がある。それが「θ位相歳差」(theta phase precession)である。
場所細胞の対応する空間(場所受容野)は多少重なり合っており、或る一瞬を切り取ってみると現在位置が受容野の端に当たる場所細胞や受容野の中央に当たる場所細胞が存在する。
つまり場所細胞の活動は現在の位置のみならず、過去どこを通ったかやこれからどこを通るかも表現できる事になる。
そこでこれらの細胞がθリズムの 1 周期にどう活動しているかを観察すると、現在地点に比べて先の場所に対応する場所細胞ほど発火が遅く(位相が遅れている)、以前通った場所に対応する細胞は発火が早い事が判明した。
つまりこれまで辿った道順がθリズムの 1 周期中に整然と再現されているのである。

位相振動子としての神経細胞

振り子時計を開発したホイヘンス(Christiaan Huygens)は、二つの振り子時計を壁に掛けて置くとそれらが自然に同期する事を見出したという*3
今日この様な現象は位相振動子系、所謂蔵本モデルにより説明できる。
蔵本モデルでは各振動子が自分の固有振動数によって振動しようとするが、それぞれ周りの振動子から(それぞれ個別な受け易さで)影響を受ける。
この時各々の振動子について、ある程度固有振動数が平均の周波数に近く、そして周りの影響を受け易ければ、振動子の周波数が段々同期してくる事が数学的に証明できる。
さてすると、振り子時計が壁を伝う振動により相互作用して同期する事だけでなく、神経細胞にθリズム等が現れる事さえも位相振動子のモデルにより説明できはしないだろうか?
この考えに立脚すると、上述のθ位相歳差や、更には時系列の記憶の原理にまで迫る仮説が導かれるのである。

即ち、ラットが或る場所細胞の受容野に入るとその場所細胞は自励振動を開始し、他の神経細胞との相互作用でθリズムと同期する(θリズム自体を形成してもいる)。
一般に平均の周波数に同期した各振動子は、固有振動数と影響の受け易さに応じて互いに位相差を持っている。
ここで場所細胞の固有振動数が活動を続ける内に増加するとすれば、位相も徐々に早くなってθ位相歳差が生じる事が説明できる。
そしてθリズムの周期毎に時系列順の場所細胞の発火が繰り返される事で、時間非対称な LTP ルール(時間的に先行する/後続する関係にある神経細胞間のシナプスの強化)によって記憶として定着する――という機序である。

山口氏の述べる「海馬のシータリズム位相コード仮説」とは大体こういう話だろう。
何故固有振動数が増加するのか、時間非対称 LTP が実際に働いているのかといった謎は未だ詳らかにされていない様子ではあるが、しかしエピソード記憶の原理をも説明しうる非常に面白い説ではないだろうか。

*1:Laura Lee Colgin. "Mechanisms and Functions of Theta Rhythms". Annu. Rev. Neurosci. 2013. 36: 295-312

*2:BodyParts3D © ライフサイエンス統合データベースセンター licensed under CC表示 継承2.1 日本

*3:蔵本由紀非線形科学』集英社新書、2007 年。