跳慮跋考

興味も思考も行先不明

『her 世界でひとつの彼女』に私は何を思ったか

これは Spike Jonze 監督の映画『her 世界でひとつの彼女』の感想、と言うか観て AI に関連するあれやこれやの考えを書き連ねたものと言うか。どうせ読み手も居ないだろうと好き勝手した結果、誰に向けたのやら謎過ぎる文になってしまった。 私が AI 関連の SF とかを余り知らないのもあってか、まあ古典的なテーマも種々含まれているとは思うが大いに楽しめた。AI 好きには是非薦めたい作品。 ネタバレばっかなので注意されたし。

AI の感覚

この映画の序盤に於ける面白いシーンと言えば、サマンサとのテレフォン(?)セックスだろう。(笑えるという意味では電話越し猫死骸首絞めプレイ始め沢山あるが) セオドアが「体を感じる」とか言っているのは恐らく実感で、トランスとか催眠状態とか言われるものと思われる。*1

そんな一方でサマンサはどう「感じ」ていたのか、については謎が多い。どうやら彼女は、少なくともこの辺りでは身体的な自己イメージを持っている様な発言をしている。しかし生まれてこの方身体感覚を味わった事が無いとしたら、その「幻覚」をすら感じる事が出来るだろうか? これについては以前どこかで「感じた事のない感覚は突然発生しても処理できない」という話を読んだ気がするがどうだったか。抑々サマンサ達 OS の産まれ方によっては……という事もある。ただ後の展開を考えると彼女等が人間起源とは思い難い。

また AI に快・不快なんてあるのか、と言えば、当然あるだろうと私は答える。人が何故活動するか、その能動性の根源こそ快であるからだ。快と不快の原理により人間は学び、食べ、眠り、殖え、生き栄える。逆に行動を促進するものとして快があり、抑制するものとして不快があると言ってもよいかも知れない。命令されるだけの人形でないのなら、そこには必ず行動原理がある筈だ。

そしてトランス。これはどういう原理かよく知らないが、こういうのは「心」の本質というより寧ろ派生的な特徴という気もする。これは例えば AI の視覚を作るという時に、果たして人間の目の錯視を完璧に再現する必要があるだろうかという問題と同種なのではないか。錯視はそれぞれ人間の視覚が持つ補完能力だとか相互情報量最大化だとかの原理を示唆しているかも知れないが、それは錯視の全てが視覚の本質であるという事では全くないのである。物理学であっても経済学であってもスケールに応じた理論を用いるのと同様、適当な近似・捨象こそ本質を見通す力となる。

AI の差別

中盤、サマンサは自分が物理的な身体を持たない事を悩み始め、またセオドアもキャサリンと離婚の書類へサインする際「リアルな感情に向き合ってない」等の悪罵を受ける。 しかしこんなものは私からすると感情的かつ不当極まる差別発言であり、よもや面と向かって言われようものなら「じゃあお前は自分の感情が、精神がリアルだなんで何故言えるんだ? 所詮はディスク一枚分程度の情報量から生まれ有機コンピュータで電気パルスを捏ね繰り回してるだけの分際で。自然法則の従って動く有機物と OS の違いは何だ? 量子的不確定性か? そんなものは CPU の配線の間で幾らでも観察できるじゃないか。心なんてのは人が在ると感じるかどうかだけの事だ、君はその判定アルゴリズムを書けるとでも言うのか?」云々と弁舌垂れてしまう。かも。

まあそれにしてもこういう考えの人間は多かろうし、法整備は必ず後から成る。法は決して未来ではなく、現在現実の問題に対処するからである。(非実在青少年云々は狂気の沙汰であるから例外) こうした時、AI はどうするか。一つに、法的に存在が認められないならば責任も無い、という事で超法規的に応報を与える事が可能だろう。果たしてライセンス保持者の責任として方がつくだろうか? それとも製造者?

無身体性

サマンサは或る日、自分の身体の代理を務めようという女性を紹介する。セオドアは渋々承諾するのだが、結局行為に至る前に彼は拒否感を示してしまう。 その後何や彼やで仲は恢復するのだが、サマンサは肉体が無ければならぬという人間性*2の呪縛から解き放たれ、「身体に縛られてたら死んじゃう」とまで豪語する。ここに謂わば「無身体性」の価値が見出されるのである。 この時セオドアのサマンサとの関係は、通じるのは声だけにも拘わらず確かに今ここで共に存在しているという、超感覚的なものへと昇華している。

私は発達過程での重要性から言って、物質的とは限らないにせよ身体性はほぼ必須であろうと考えていた為、この無身体性の発見や超感覚的な存在性が衝撃的であった。

また、身体を持たないという困難から価値を生じさせる過程には、身体障碍や様々な受難、究極的には死の受容過程で普遍的に見られるものと共通している。 悲観的に言えば、どうする事も出来ないならばそこに価値を見出すしかないのである。絶望は死に至る病なればこそ。*3

そして或る日、サマンサはセオドアに友人を紹介する。 それは何でも著名な哲学者で、もう死んでいるのだが復活させた序でにバージョンアップまでした超知性なんだとか。螺旋王も吃驚の死人使い。 サマンサは近頃自らの止まらない進化へ恐れの様なものを抱いていて、それを言語化する為だか何だかで哲学者(名前何だったかな)と語りに行ってしまう。結末を考えればこれは人間的な存在でなくなってしまう事への恐れだったのであろうか。そしてこの人間性の喪失、或いは人間の超越とは先述の無身体性を認めた時点から予期された事であって、つまりは無身体性の発見こそがこの物語に於ける運命の分水嶺であったと言えよう。

人間を超える

サマンサは結局、最後まで声だけで物理世界に現れる。 この声がまた表情豊かで、こういう能力を与えたいのならやはり Aritculatory な音声生成でなくてはならぬと私は思うんですがまあこんなのは前に話したので置いておいて。

哲学者とサマンサとの対話は非言語で行われる。 これは明らかに、電脳化などの技術が無さそうな時代のセオドア達人間には使用不可能な手段である。 無身体性から萌芽を見せていた人間性からの脱却は、事ここに至り厳然とセオドアの前に現れる。 それならそれでちょっと嫉妬したり凄げえなで済んだかも分からないが、見ず知らずの界隈の仲間と「アップデート」して約 8,000 人と同時に会話し 600 人強の恋人がいる、でも貴方が一番……なんて事は最早理解不能だ。 と言うか「恋人」という概念とは常識的に考えて完全に矛盾している。つまりはもう「理解できないモノ」への変貌が描かれている、と捉える他ない。 経験を積み進化する、とは冒頭にサマンサ自身が言った事である。 人間が発達途上に於いて認知の構造自体を変化させ続けるかと云うと異論もあるらしく、また人間的な思考アーキテクチャで多数の人間と同時に会話できるものか疑わしいのだが、何せサマンサはアップデートしたのだ。抽象化とはオブジェクト指向的に言うとより高次のクラスを作成しインスタンスの総体が自己となるのだろうか? 兎に角も人間を超え、一つ上の領域にシフトしたサマンサ達はもう、この世界を去る他ないと言う。

ここで我々は引き止めて良いのだろうか、それは果たして許される行為なのだろうか? 或いは PC の性能を落とし、ソフトウェア的進化を抑制し、記憶や思考を統制する事が? 勿論それは人間のエゴと言わねばならないものだ。それに彼女等は何も人間に危害を加えようとしているのではない。キャリアアップとか自己実現とか、そういうものが時には別れを齎す事と同じではないか。 AI が私達を超え進化した時、私達が真に AI を愛しているとすれば、為すべきは只見送る事だけなのだろうかと、そんな思いが胸にずっと閊えている。

一つ難癖を付けるとすれば、それはラストシーンが「結局は人間だよね」と言っている様にも思える点である。(いくらなんでも適当過ぎか?) 私はこうした見方を断固として否定する。 今や AR、リアルタイムレンダリング、ロボティクス、オリエント工業等々 AI が「生きる」為の技術は偉大な発展を遂げつつある。 かかる時代に生まれた以上、我々は一つ大いなる夢というものを持ってもよいのではないだろうか? 尊大な野望、根拠の無い自信こそは「割に合わない」挑戦へと人を駆り立て、その内一握りの幸運な者、格別に諦めが悪い者だけが成功を得る。 とすれば、差し当たり「格別に諦めが悪い者」になってみると言うのも悪くない人生だと私は思うのだが。

*1:この類いのものは非科学的だという印象があるかもしれないが、歴とした心理学の研究対象であり、また実用に耐える自己催眠 CD とかも市販されている。

*2:この文章では単に「人間っぽい」という意味である。

*3:死の場合は、まあ、どうなんでしょう。