跳慮跋考

興味も思考も行先不明

何故人は一生使わない二次方程式の解の公式を学ぶのか?

私の思っている学校教育の価値について。集団生活への適応とかも大事だと思いますが、そういうのはよく言われているので置いておいて、ここでは「学ぶ事」に的を絞りたいと思います。他の記事と違って高校生くらいも対象読者に入れているつもりです。

規則の運用

さて表題の話をしましょう。「一生」とは多少大袈裟ですが、まぁ世の中直線のグラフを引けば大体大多数はどうにかなるものです。それでは何故に二次方程式の解の公式だの微分積分だのを高校数学で教えるのかというと、極論別に「数学ができる」(二次方程式を解けたり微積を使えたり)様になる事が目指されているのではなくて、与えられた状況に応じて適当な方法・規則に従い要求された結果を出す、そうした「規則の運用」の能力を養う事こそが高校数学の価値なのではないかと私は思います。
では高校数学が規則の運用能力を育むとして、他の教科はどうなのか。物理に関しては数学と近いですが、現実の状況を規則の適用できる形に整理して把握する、という様な「状況の把握」が規則の運用と同程度に重要になっている印象があります。化学や生物については規則の運用に必要な「情報の記憶」が重みを増し、それは単語や文法の点で英語とも共通するでしょう。国語も以上の様な要素を持ちますが、状況も規則も数学などより随分ふわっとしたものになって、「こう思っているからこう行動する」みたいな「曖昧さの許容」が必要になります。
「規則の運用」の他の要素も出てきましたが、それらは概して「規則の運用」能力を十分活かす為に必要とされる能力であり、学校(特に高校)に於ける学習とは「規則の運用」能力の養成を中心として捉える事ができるのではないでしょうか。

学校制度と資本主義

学校での学習の意義として「規則の運用」の能力の養成を見た訳ですが、では何故「規則の運用」が目的なのか。それは今の学校制度というものが、産業革命と同時に生まれたからに他ならないでしょう。「規則の運用」とはつまり「所定の書式に従って書類を作成する」「データを表形式に纏める」といった事務作業で必要とされる能力、より広くは定型の仕事を円滑に遂行するという、資本主義社会で最も大量に求められる能力に他ならないからです。大抵の職種では「規則の運用」能力が即ち仕事の能力であろう、という事です。

日本の大学と就職

「勉強しない大学生」「コミュ力重視の就活」に文句を言う真面目君(理想主義者と言うべき?)を偶に見掛けますが、大手企業が大卒しか取らない状況にあってはそれが当然の合理的行動だと私は思います。
上記の「規則の運用」能力はセンター試験でそこそこの点数を取れれば大抵十分な訳で、企業としては「偏差値の高い」大学の卒業生を採れば良いので非常に便利でありましょう。こうして良好な労働条件を獲得するに当たって大学での勉強は無価値になり、「勉強しない大学生」が最適戦略となる訳です。いやもっと複合的な事情があるかもしれませんが。
それで「規則の運用」能力が十分と分かっているのならば、後は他の人間とスムーズに協働できるかどうか、即ち「コミュ力」が重視される。そういう当然な必然が日本の大学と就職の現状を形成しているのです。「学生の本分は勉強だ」と呪文の様に呟いても、社会がそうなっていなくては意味が無いというものでしょう。