跳慮跋考

興味も思考も行先不明

『ラン・オーバー』と「箍」の話とか

講談社ラノベ文庫より世に放たれた、稲庭淳『ラン・オーバー』が非常に面白かったので、色々思うところをここに記しておこうと思う。
結末にまで関わる話をするのでネタバレ注意

「イカれてる」

人は普通、ちょっと苛つく相手に遭遇したところですぐそれを殴ったりしない。
これは根源的には円滑な社会生活の為であったり、遣り返されるリスクや法に訴えられた場合のデメリットを考えた合理的行動なのかも知れないが、イラッとする毎に一々そういう事を考慮している訳ではなくて、寧ろ一つの強力な規範として「非暴力」が頭に刻み込まれていると言うべきだろう。そしてそれは偏に幼少期の「教育」の賜物なのだ。
即ち子供の頃にはすぐに手が出て喧嘩になるのだが、その度に叱られる等する事で暴力に訴える行動が抑止されてゆき、やがては選択肢にも挙がらずそういう行動が抑圧されている事自体にも無自覚になるのである。(尤も人の痛みに敏感であれば端からそんな攻撃性を持たないかも知れないが。)
精神分析に於ける「超自我の抑圧」はこの類いの心理を説いているのだと思うが、名前は兎も角として人はそうした「箍」を(屡々そうと気付かない侭に)嵌められて生きている。
一方で「箍」の成り立ちからして、教育の不備があれば「箍」は幾らでも不完全に仕上がる。だからこそソニー・ビーンの子供達は通行人を狩り続けたし、現代社会だって平気で他人の物(傘とか)を盗んだりする人間が絶えないのだ。人は法そのものではなく文化的な善悪観に従って生きている。

話が長くなったが、要するにこの物語は復讐劇などでは全くなく、単に湊里香により(元々壊れかけていた)「箍」を取り払われた主人公達が気に障る奴等を「皆殺し」にする、唯それだけの事なのだ。
傍観者ポジションを(物語上)継いだ柴田は繰り返し「イカれてる」と言うが、一方の解き放たれた主人公・伊園は「俺は、できる」「自由だった」と謳う。その差はきっと「箍」の存在に気付いているか否か、それが実はいつでも捨て去れるお仕着せの行動制限だと気付いているか否か、そういう所なのだろう。
それに気付かずにいる限り、人はどこまでも漠然と苛立っている。

動機について

湊里香が「喪失感が味わえるかな、と思ったから」と言った動機は何処までも真実なのだろうと私は思う。彼女が中盤に自らプレゼンテーションして見せた動機はどれも正確でなく、しかし真実の一面が鏤められていたのではないか。
湊里香は実際写真の子と友達で、仲が良くて、別の高校で自殺した事を聞いて、しかし何も大した感情は湧かなかった。怒りも悲しみも喪失感も。だから彼女は「復讐」する事にした、それは如何にも「心ある人間」のしそうな事だったから。その意味で復讐は口実なのだが、一方彼女の「箍」を外してしまったのはやはり友達が死んだ事だったかも知れないし、或いは出来過ぎた話だが転校は偶然で、彼女自身への虐めがその原因だったのかも知れない。
全き空想ではあるが、彼女の静かな佇まいや笑みを想うにつけ、そんな事を考えずにはいられないのだ。

伊園君と湊さん

この二人はきっといつまでも「互いを心の底から信じ合う」みたいな関係とは程遠くて、何回も裏切ってみたりそれで後ろめたさを相殺したりする碌でもない関係の侭なんだろうなと私は思うが、別にそれが悪い事だと言いたいのではない。
私が随分昔に読んだ話で、機能不全家族に育った女性が同様な家庭環境であった男性との付き合いを「傷を舐め合うような関係は不毛でしょうか?」と大学時代の恩師に訊いたら「傷を抉る相手よりずっと良い」と言われて結婚を決めた、というのが記憶に残っている。(探してみると 六年前の発言小町 であった。)
たとえ碌でもなくっても、碌でもないなりに幸せになっていけない訳ではないだろう。故に私はこの二人が、とてもお似合いの祝福すべきカップルだと思う。

序でに書いておくと、機能不全家族やAC(アダルトチルドレン)に関しては桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が明らかにその辺りを意識していてかつ素晴らしい作品になっているので、救いの無い話ではあるが是非薦めたい。
それから西尾維新猫物語』なんかも大好きなのだが、この話はまた今度詳しくしたい。

これを書こうと思った動機の一つに、この本の感想としても「イカれてる」みたいな表現をしている人が多く見られた点がある。つまり私が言いたかったのは、別に狂った訳じゃなくて単に「箍」が外れただけだろうって事だけれど、まぁそれはやっぱり普通に言う所の「おかしくなった」状態なのかも知れない。
何にせよこれが「イカれてる」と認識される程度に日本人への「教育」が浸透しているのは、全く平和で素晴らしい事だろう。