跳慮跋考

興味も思考も行先不明

共感、法、倫理――「なんで人を殺しちゃいけないの?」の真面目な話

「なんで人を殺しちゃいけないの?」
こんな質問は実際にする時点で多少ヤバいと思うが、だからと言って答えなくても良い訳ではない。では果たしてどう答えるべきだろうか。
例えば「法律で決まっているから」なんて答は最悪の部類だろう。これは「法律は殺人を禁じている」という事実を述べているだけで、ここには「何故法律に従わなければならないのか?」とか「何故そういう法律があるのか?」とか「法で禁じられていなかったらして良いのか?」といった疑問が依然残る。
「殺されるのは嫌だから」「その周りの人が悲しむから」というのは割と標準的な答ではなかろうか。通常の感性であれば「人の嫌な事はしない」のは当然だと思える。しかし、冒頭の質問は恐らく「通常の感性」に疑問を感じている人間からこそ発せられるものだ。果たしてそうした人々にも納得できる理由が存在するだろうか。
「『撃って良いのは撃たれる覚悟のある奴だけ』だから」はどうか。これは何も適当に引用した訳ではなく、社会契約説に基づけば「私は殺されたくない」から「人を殺すべきでない」が導かれるという意図を込めているのだが、詳細は法の話と合わせて後程議論したい。
差し当たっては二つ目の説明、特に「通常の感性」なるものについて話そう。

共感と善悪

何故「人の嫌な事はしてはいけない」か。
身も蓋もない様ではあるが、私は人間の行動原理なんて結局「快か不快か」に集約されると思っている。快とは「快楽」よりは「快い」感情全般を指し、違和感があれば「あらゆるポジティブな感情」と読み替えても良い。不快は逆にネガティブ感情の全てだ。理性的な判断とか言われるものも結局は長期的に見て自分に快な選択をしているに過ぎない。「○○してはいけない」の真意は「○○すると最終的に自分に不快となる」から(たとえそれで直近の快が得られるにしても)避けるべき、という事なのだ。
「人の嫌な事はしてはいけない」も自分の快・不快によって説明するならば、「人の不快な事をするのは自分も不快になる」という事実から導かれていると言えよう。

さてその〈他人の不快→自分の不快〉はどの様な原理で起こるのか。
一番単純なのは「共感」だろう。人間は人の嬉しい顔を見れば嬉しくなるし、悲しい顔を見れば悲しくなる。これはミラーニューロンの情動版とでも言うべき、人間の脳が生得的に持つ機能なのだと私は考えている。また発達に伴って他人の心の理解が進むにつれ、「想像」により今現在目の前にいる人の感情以外をも予想し(或る意味ではそれに共感する事で)行動を選択できる様になる。
ここで共感は生得的だと言ったが、その程度は人それぞれであり、時には他人の感情自体が認識困難な場合もある。これは自閉症等に見られる特徴と言えるが、こうした疾患の場合は「心の盲」と言われる様に「他人の心の存在」自体に無頓着だそうなので例として適切かは微妙だ。純粋に共感能力の低さと言うと、寧ろ近年「アスペ」の罵倒語(診断名がこういう使い方をされるのは非常に遺憾だが)で揶揄されている所の特徴こそそれに近い気がする。また元々共感能力が欠けているという訳ではないが、虐待等によって自分の感情を抑圧し続けた結果共感が起こることもなく育つという事もある様に見える。
兎に角もそうした共感能力が低い場合には、自分の内側から〈他人の不快→自分の不快〉という繋がりが形成され難い為に、外側からの教育・躾により不快を与えられる事で善悪観(のようなもの)を獲得すると考えられる。だがこれは外側から押し付けられた価値観でしかないので、その意義を疑問視し疎ましく思う事も当然あるのだろう。

さてここまで快・不快の原理から説明してきたが、これは飽く迄も自分一人の動機の問題である。「人の嫌な事はしてはいけない」と自分が考える理由はあっても、それを皆が守るべき「決まり」にする理由にはならない。また共感能力が全く無い人間からすればそれは周りから教え込まれた価値観に過ぎないので、ここまでの話からすると全く遵守する道理はなくなってしまうのだ。更には「死にたいと思っている人は殺しても良いか?」も答え辛い問となる。こうした問題に答える為には、人々が互いにどういった思惑で法を決め社会を形成するか考えなくてはならない。

安全の保証

「自分は殺されたくない」は生命の根本原理だ。有限な命を持つ存在の、と言うべきかも知れない。生きて命を継ぐ事は決して生命の目的ではなく、寧ろ半永久的に存在し続ける為の必然的な特徴である。偶然生存を志向すると言える機能(具体的には自己複製機能とか)を持つ有機物質が誕生した為にそれが生命と呼ばれたのであって、まぁその偶然に意味を見出だすのは自由だが、生きる事自体に人間が作れる以上の意味など無いと私は思う。
話が逸れたが、つまりは共感能力の無い人であれ何であれ「自分は殺されたくない」は共通しているという事だ。ではそうした人々が集まった時、一体何が起こるか。

例えば国も何も無い場所に十人程度の人々が住んでいるとしよう。その人々が何事もなく仲良くしているのなら良いのだが、仲が悪かったり誰か闇討ちされたりして互いの信用が無くなると問題である。信じられない相手が自分を害さない保証は何処にも無いのだから、どうにかして安心できる状態を作り出さなければならない。不安はストレスであり、ストレスもまた人を殺すのだ。
さて、それでは他人の行動を縛るにはどうするか。
例えば特定の一人が自分の身を護る為に「私を殺してはならない」という決まりを考えても、他の人々には得が無いので当然却下される。「人を殺してはならない」という決まりなら認められるかも知れないが、これだけではあまり意味が無いのである。破っても何もされないのなら破り得となってしまうし、実際現代に於いても罰則規定の無い法がいかに無視されている事か。決まり事を守らせるには、それに強制力=罰による脅しが附随していなければならない。
ではその罰をどう執行するのか、死を以て罰とするならば罰の執行もまた「人を殺してはならない」に反するのではないか? これを解決する為には、決まりを「罪人を除き人を殺してはならない」とすればよい。これにより人々は、自分が「殺し」の力を放棄する限りに於いて「決まり」の保護に浴しつつ、決まりを破った者はその力で罰するとして秩序を守る事ができるのである。
この状況は互いに銃を持った人々が円になって座っていると考えると解り易い。彼等は互いに銃を仕舞っている限り撃たれる心配なく語り合えるが、それは「お前が撃たない限り俺も撃たない」という暗黙の取り決め、また裏を返せば銃を取り出す者は全員に撃たれる事になる状況の脅しにより成り立っているのである。
正に「撃って良いのは撃たれる覚悟のある奴だけ」*1なのだ。

共感の範囲

先に共感が善悪の起源だと言ったが、では共感能力が十分に豊かならば人は「悪い事」をしないのだろうか。抑々誰もが認める「正義」や「悪」というものは在り得るのか、全人類共通の善悪観は(たとえ一部の事柄についてでも)存在するのか?
私が思うに、少なくとも全人類で善悪観が完全に一致するという事はあり得ないだろう。その話をするに当たっては、一つ非常に印象に残っている台詞を引用したい*2

目を閉じて「世界」を想い浮かべると何が見える…?
私はね 「世界」って地図に示されたような形は見えないの
ずっと戦場にいた私に見えるのは
教団っていう囲いの中にいる仲間みんなの顔だけ
ひどい奴でしょ… ホントの世界より仲間が大事なの
それが私にとっての「世界」だから

私はこの「世界」こそ人の共感や想像、或いは「正義」の対象なのではないかと思う。人は本当の世界の全人類へ平等に感受性を持つ訳ではないのである。
例えば人身事故で電車が遅れた時、貴方は事故に遭った人を身内と同じ様に悼むだろうか。どれだけの人が「痛かったかな…?」*3と想いを巡らせたりするだろうか? 可哀想とは思う人も多少居ようが、それは想像とか教育とか、或いはそういう悲しみ方をする人への共感から得た間接的な感情や印象であって、大抵の人間にとって身近な人を亡くした時のそれとは異質なものなのではないだろうか。
この「共感の範囲」が素質や環境で多いに変わりうるという事は、世界各地の地域によって治安の程度が異なる辺りによく現れている様に思う。「心が荒んでいる」とか「人を思いやる余裕がない」とかふわっとした説明は、人を解った気にさせる効果こそあるかもしれないが、それは私の求める理解ではない(別にふわっとした理解を否定するのではない。態々「世界」の外側を覗いて心の安寧を乱す事が賢明だとは私には思われないからだ)。人は遺伝と経験から成っており、大概の事はそこから説明可能な筈なのだ。そしてこの場合、経験の中でも特に教育が人間の共感の範囲を広げるに当たって決定的な役割を果たす様に思われる。

さて知らない人というのは大抵の人間にとって身内や友人よりは大分共感の度合いが低かろうと言ったが、しかしさっきの人身事故も目の前で起きたとしたらどうか。全く自分の与り知らぬ処であったのとは随分違う反応にならざるを得ないだろうが、これはつまり目の前にいる人には殆ど無条件で共感の程度が上がるという事を示している。共感の大元は今現在目の前にいる人への共感なのだから、それは或る意味当たり前とも言える。
普段平然と牛や豚の肉を食べながらもその屠殺の様子を見せつけられると拒否感を示す少女に対する「その反応は理不尽だ」*4という指摘は、眼を背けたくなる様な事も自分から見えない世界でなら平気で行う人間の行動のちぐはぐさ、もっと言えば自分の不快な行いからは眼を逸らして「世界」の外側に追い遣る人間の弱さに対する批判だと解釈できる。しかし人間は自分の身の周りの世界で生きているのであり、通例「正義」とはその範囲の人々を幸せにするという事なのである。これは確かに理不尽だが、人間は決して理で生きている訳ではない。

倫理と敵

人にはそれぞれの共感の範囲があると言ったが、「身内」と「知らない人」が両極端なのかと言えばそうではなく、「知らない人」の更に外側には「敵」が存在している様に思われる。「敵」は殆どの場合全く共感される事なく、寧ろ〈敵の不快→自分の快〉という共感とは真逆の関係になっているのである。これもまた、より生存する可能性が上がるが故に生命が獲得した特徴の一つであろう。
敵への残虐性とも言えるそれが最も顕著に現れるのは、やはり戦争の場面に於いてだと言える。戦争の下では時に無辜の民すらも敵側にいるだけの理由で殺されるが、一方で米軍のイラク帰還兵の実に多くが PTSD に悩まされている様な事実も見逃してはならないだろう。敵に対する共感は存在しないと言うより寧ろ、抑圧されていると考えるのが妥当ではなかろうか。

さて戦争と言うと、よく「戦争の悲惨さを知ってほしい」という主張を聞くのだが、それだけで戦争が無くなるかと言えばそうではない様に思われる。敵に対してはその悲惨さも寧ろ見舞ってやりたいくらいなのだし、自国の被害は軽く見積もられるのが世の常だ。
別に戦争が何をもたらすか知らなくて良いと言うのではないが、我々が本当に知るべきなのは「自分がいかに敵に対して残酷になれるか」ではないだろうか。そして誰が敵なのかは状況次第で幾らでも変わり得るだから、我々は正義を揮おうとする時には常にその相手が本当に自分達へ害なす我々自身の敵なのか否かを慎重に吟味しなければならない。仮に「軍靴の音が聞こえる」様な時代が来るとすれば、それはメディアが我々に共通の「敵」を作り出そうとする時だろう。私としては、現代に於いてそんな企みが成功するとは到底思われないのではあるが。

人権なるもの

先に決まりを破った者は最早決まりに保護されないと述べたが、では犯罪者には何をしても良いのかと言うと、少なくとも現在の法はそうなっていない。これは何故か。凶悪犯罪者なんて皆殺すべきではないか、それなのに加害者の人権がどうとか、剰え死刑を廃止せよと主張する者さえいるのだが、彼等はトチ狂った博愛主義者ではないのか?
勿論そんな事はないのだが、この問に答える為にまた一つ興味深い話を引いて来ようと思う*5

旅人キノは喋るバイク(空は飛ばない)と一緒にある国を訪れる。その国は人気が全く無く、三日目にして漸く一人の住人に出会う。
彼によると、その国はかつて王政を倒し直接民主制を採ったのだが、やがてその体制に反対した少数派を投票の結果国家反逆罪で処刑し、死刑に反対する者も処刑し、税制に反対する者も処刑し、後には彼とその妻、そして彼の昔からの仲間という三人だけが残った。その仲間も最後には国を捨てると言い出したので投票を行い、彼と妻の二票により処刑された。彼の妻はどうなったかというと、ある日風邪に罹ったものの医者は処刑した後だったので、為す術無くそれが悪化して死んでしまったのだった。

「俺は間違ってなかっただろう?」と言う彼に対するキノ達の返しがまた面白いのだが、それは実際に読んでみてほしい。さて実際、彼の国は何を間違えたのか?

思うに問題は多数決というか、代表制全般の本質にあると言える。
十人程度ならば兎も角、百人や千人ともなればとてむ悠長に全会一致の妥協点を見出す余裕は無いのだから、何らかの方法で「全体の意見」を決める手順を約束して良しとしなければならない。たとえその意見に反対でも意見を選ぶ方法自体には合意しているという訳だが、しかしその合意も無条件という訳ではない。自分の命に危害が及ぶ様な法を通す議会を容認など出来ないだろう。話し合いして「全会一致」を旨とするなら自ら抗議すればよいが、代表制の下では(たとえ直接民主制でも)どうしても無視される意見が生じる。これは大規模な社会を運営する為にシステム化する際の必然的な欠点であり、所謂「疎外」とはこれを指しているのではないかと私は思うのだが、何にせよ本来なら通る筈の無い意見が代表制では通ってしまう歪みを是正する為に「常に侵される事の無い権利」が必要となるのである。
人間は法の出来る以前から何人にも侵されない一定の権利を有している、と云う「自然権」の背景にはそうした事情があるのだが、理屈があれば屁理屈がそれを覆す。故に人には人権等が「とにかくある」としなければならない、というのが「自然権」の本音と建前なのではなかろうか。

それでも犯罪者にまでそんな配慮をしなくていいのではないか、と思う人もいるかも知れないが、なかなかそうも行かないのは「法を破った者」が人為的に作れてしまうからである。
例えば単純小選挙区制(各選挙区の人口は均等とする)を採用する国に於いて平均得票率 50% で当選した議員*6の半数が支持する意見はどれだけの国民から支持されているかというと、その数は最低で 0.5 × 0.5 = 0.25 の 25% に過ぎないのだ(半分の議員が属する選挙区の民の更に半分)。理論上はこの 25% で法を自由に変えられるのだから、法に優先する権利を認めないのならば残りの 75% の生殺与奪は僅か 25% の人々が握っている事になる。歴史上でも実際に「凶悪な政治犯」なるものが創造されて来た以上、この代表制への戒めをそう簡単に解く訳には行かないのであろう。

終わりに

以上随分と長くなってしまったが、冒頭の問について私なりに筋の通った答を示したつもりだ。この種の厄介な問に大人が皆が答えられるべきだとは別に思わないが、全ての子供の周りに少なくとも一人は自分なりの答を示したり、一緒に考えられる人が居るべきだとは思う。人を導くというのはきっとそういう事なのだから。

追伸、職を探しています。

*1:色々な所でこれに類する台詞を見るが、大元は『大いなる眠り』から来ているらしい。

*2:漫画『D.gray-man』第8巻は第69夜のリナリー・リー。教団とは彼女の所属する「黒の教団」を指す。

*3:アニメ『ブラック・ブレッド』最終話は後半の藍原延珠。このアニメはずっと女の子がかわいいだけの(多少重い)話だと思っていたのだが、最終話では蓮太郎の正に「泥中の蓮」と言える生き様が鮮烈に描かれており素晴らしかった。

*4:アニメ『魔法少女 まどか☆マギカ』第11話は前半のインキュベーター。この宇宙生物は(自称)感情が無いにも関わらず「宇宙の寿命を延ばす」という(種の保存に繋がるとも言える)明確な行動原理を有しており、死への恐怖でないのなら何がその行動原理を生み出したのか非常に興味深い。もしかしたら彼等は、何らかの宇宙消滅を「恐れた」生命体により製造されたのではないだろうか?

*5:小説『キノの旅』第1巻は「多数決の国」を要約。

*6:単純小選挙区制の英国で今年行われた総選挙の当選者の平均得票率は https://github.com/robfarr/UK-General-Election-2015-Data/ のデータから計算すると 49.8% なので、これは現実的な数字と言えるだろう