跳慮跋考

興味も思考も行先不明

リベラルって何なんだ

時折「リベラル」を自称する人間が、異なる立場の人間に罵声を浴びせているのを目撃する。これはドナルド・トランプを全力で叩く米国のリベラルを見るに、日本だけの状況ではないらしい。

考えてみるとこれは奇妙な現象だ。辞書によればリベラリズムとは「自由主義」なのだが、それでは各人がどの様な思想を持つのも自由なのだから、何人に対しても「排除しよう」なんて発想にはならない筈だろう。

「自由」と言ったとき、人種だとかジェンダーだとかについてであればその主張は簡明だが、こと思想については次元が異なる。「思想は自由だ」という主張はそれ自体が思想であって、自由な思想の一つに過ぎなくなる。その自己言及性にあまり注意が払われていない、という事なのだろうか。

それとも「自由主義」という解釈を捨てるべきか。リベラリズムの源泉がどこにあるかと言えば、宗教的自由を追求した結果としての「寛容」と、近代理性が自信をつけた結果としての「啓蒙」であるらしい。

現代のリベラルも確かに啓蒙的と言えるだろう。理性によって蒙昧なる偏見を排する、という意志は確かに感じ取る事ができる。
そう、「排する」だ。
啓蒙思想にはある種の傲慢さ、大いなる知識を生み出した事による理性の自信過剰とでも言うべき心理がある。

啓蒙を突き詰めれば排他的思想に陥り、また寛容を突き詰めれば自由放任、ホッブス的自然状態になり兼ねない。何だ、リベラリズムとは根本的に矛盾しているのか? と言いたくなるかも知れないがそうではなく、両者のバランスを取る事が重要なのだろう。

しかしそのヨーロッパの培ったリベラリズムから寛容さが失われ、不遜な啓蒙思想が蘇ってしまった。それこそ現代における素朴な「リベラル」の本質なのではないか。

ではなぜリベラルは寛容さを失ったのか?
思うにそれは、リベラリズムが剰りにも普及し過ぎたからではないだろうか。教育といい論壇といい、社会全体がリベラリズムの価値を認める事で、あたかも絶対の価値観であるが如き地位を得てしまった。その大いなる普遍性が、近代における知識と同様にしてリベラルを増長させ、「不寛容なリベラル」を生ぜしめたと、そういう事なのではないか。

当然リベラル全体が不寛容になっている訳ではないと思いたいが、ポリコレだ何だで絶え間なく攻撃を繰り出すリベラルへの反発は既に無視できない規模になっている。(いやこの辺りは大分主観か?)Brexitドナルド・トランプどころではない揺り戻しが来るのではないか、という危惧も決して杞憂と片付ける事はできないだろう。