跳慮跋考

興味も思考も行先不明

ハンターハンター蟻編の皮肉な多様性賛美について

私は蟻編を思い返す度に「なんて後ろ向きな多様性の肯定なんだ」と沁み沁み感じ入るのだが、意外とこの手の話が為されていない様なので、今更ながら書いてみようと思う。

まず蟻の進化戦略だが、これは端的に言うと徹底した全体主義である。全ての個体は王の為に存在し、種の発展の全てが王に収束する。人間の形質を取り込む事でいくらか綻びが生じた様ではあるものの、こうしたシステムは護衛軍の行動や王自身の言葉により十分に語られている。

一方で人間の場合、これは自由主義的と言えるだろう。人間に種の性質として「特別な個体」などというものは定められておらず、生き残るには力によって競争に打ち勝つしかない。「万人の万人に対する闘争」という奴だ。(まぁこれを自然状態とするのはホッブズ的発想で、ロックの様に法の下の平和こそ自然と考える向きもあるが)
単に個として己を高めるのではない。不倶戴天の敵同士が犇めいているからこそ、個々は理不尽とさえ言える情熱を注いででもその牙を研ぐのである。ただ、ネテロ個人においてはその競争は切磋琢磨という言葉が相応しい気持ちの良いものだったが、人間全体としては敵意・害意・悪意に満ち溢れたものである事も彼は十分に了解していた。
「俺は一人じゃねェ…」という言葉にはその清濁を併せ呑んだ会長としての立場が表れていると言えるだろう。

……個人的には悪意というよりも「恐れ」こそその本質ではないかという気がする。かのマンハッタン計画とて発端はナチス・ドイツ核武装に対する恐れだったのだ。(その辺りの心情を敵に吐露させている点で私はハガレンの『シャンバラを征く者』が大好きだ)

ともかく人間という種の進化には「収束点」など存在せず、互いに恐れ憎しみ、万策を以て敵を貶めようとする。そしてその悪意が、人間の感情の中でも最も苛烈かも知れないそれこそが、膨大なエネルギーを呼び覚まして進歩を生む。暗澹として底知れず、吐き気を催す様な無限の悪意は、決して遺伝子レベルで「絶対者」の存在が組み込まれた蟻には辿り着けない。
メルエムはコムギやネテロとの闘いを通して個の価値をある程度は認めるに至ったが、遂に「多様な個の有り様」から生じた競争の意義を認める事はなかった。もし理解していれば、人間は決して蟻という脅威を根絶やしにせずにはおれないと分かっただろうし、「何かがほんの少し違っただけで」という言葉も出なかったであろう。

多様性を持つが故の闘争と悪意こそが全体主義に勝る進歩を生む。この上ない後ろ向きな多様性肯定論ではあるが、人類の歴史を顧みるに説得力も一入と言わざるを得ない。
少年誌に何をぶち込んでんだという話ではあるが、作者の捻くれた視点が垣間見えて何とも面白い。