跳慮跋考

興味も思考も行先不明

全ての動機は生存に通ず

理性とは長期的な欲望充足の為の予測システムに過ぎない。

生存

動機、すなわち人間がある行動を何故するのか、というのは究極的には生存の為として説明できる。
いやこれは順序が逆で、かつて偶然にも自己増殖機能を持った有機構造体が生まれ、それが進化し分岐する中で、自己増殖機能を失わなかったものだけが今日も「生命」として存在しているだけの事だ。誰もが生存を「目指している」訳ではなく、そうしなかったものが消えていくに過ぎない。生存した者を見ているから生存の努力が普遍的にある様に錯覚する、言葉通り生存バイアスの一例と言えるだろう。
これに「普遍的ならば良い事の筈だ」とか「良い事を否定するのは悪い事だ」とかの迷信的な価値判断が組み合わせられると、「死のうとするのは悪い事だ」みたいな話になる。いやそれだけではなく共感による部分、つまり「相手を不快にさせるのは悪い事だ」といったより健全な原則による抑制もあって、こちらの方が強いと人は「死にたい」ではなく「消えたい」と言うのではないか。とにかくあまり安易に「生きて当然」などと考えるのは感心しない。

さて生存の話に戻ると、まず個体が存続する為に食物などの獲得が必要であり、また種が存続する為に生殖活動が必要となる。こうした行動においては特定の脳内物質が分泌され、それが生存に寄与する行為である事の指標になっている。要するに最も基本的な快感情というのは「生存に適う行動のマーカー」であり、欲望とはそのマーカーへの志向性、あるいはマーカーの行動を引き起こさせる性質そのものだ。大脳の内側の古いシステム、大脳辺縁系が生理的な快と欲望を司る。

パターン学習

「志向性」とはどういう事か。
生殖行為なり食事なり、最も直接的に生存へ寄与する行動にだけマーカーが付いていても意味がない。何をすればそれに辿り着けるかという道標が必要になる。
例えばレバーを押すと餌が出る箱にラットを入れる。ラットは初め無作為に動き回るが、偶然レバーを押し、直後に餌を獲得する(マーカーが働く)と、この時間的な隣接性を徐々に学習する。つまり、レバーを押す→餌を得る、というパターンを繰り返し体験する事で、餌の獲得を確実に引き起こすレバーを押す行為の方にもマーカーが付けられるのである(いわゆるオペラント学習)。この様なマーカー付けは主に扁桃体が担う。
偶然に経験が偏る事であまり役に立たないパターンを学習する可能性はあるが、基本的に最終的な快・不快(報酬と罰)を一緒に体験しないでいると学習されたマーカーは消失する。例外として非常に強い快・不快などにより過度な学習が起こると、長らくそれが消失せずに残る事もある(依存症や恐怖症)。

イメージ能力

更に発達すると、大脳新皮質においてイメージを基にしたシミュレーションが可能になる。
パターンの学習においては A→B という単純な対応関係にしか適応できなかったが、前頭前野における計画能力は更にその関係を連鎖させて、より先の出来事の予測を可能にする。言語による抽象的な思考は更に低コストで柔軟な予測を実現するが、この文脈ではイメージ能力の派生と見なしてよいだろう。
こうした能力が長期的に見てより有利な(いわゆる理性的な)行動を提案するのではあるが、「朝三暮四」と言われる様に必ずしも意思決定を支配する訳ではない。皮質下のより原始的なシステムの方が優先され、直接に知覚した場合よりもイメージのみではマーカーが作用しにくい様な傾向がある。直観的に言えば、元となる知覚情報を処理して思考する内に減衰・拡散らしき事が起きて、マーカーの行動を誘起する作用が弱まるという感じだろうか。
ただ学習されたパターンが(ボールドウィン効果のシナリオで)種に定着する様に、高次のイメージ能力によってしか生存と結びつかない体験でも、種が十分に長い間その推論の十分有効な環境に置かれればそのマーカーが定着する事は考えられる。例えば「集団内で地位の低い状態」の体験が直ちに生存に不利に働くという事は稀だが、長期的に見れば集団からの様々な恩恵が受けられず最終的には生存を難しくする。この「地位の低さ→生存に不利(な何かしらの出来事)」という関係は単純なパターン学習では習得できず、他人の心理を内心でモデル化して、それがどう変遷するかをシミュレーションしなければ認識されない。にもかかわらず人が「集団内での地位」といった抽象的なものに強いマーカーを付与している(何も考えずとも感覚的に不快と感じる)のは、その推論が実際に生存に大きく関わる社会的な環境で人間が長い間進化してきたからだろう。

動機の派生

こうした社会的適応を目的とするマーカーは最早本来の生存を目的とするマーカーと同等かそれ以上の力を持ち、この状況が時として人間に自殺などの生存に反する行動を取らせているものと思われる。それでも種全体としては高度な予測能力を有している方が生存に有利になるから、淘汰によって失われる事はない。
要するには高度な予測能力を持って長く進化してきた結果、生存から派生した動機(社会的なものなど)がその生存に匹敵するほどの力で行動を支配する様になった、という事だ。

感情と理性

大雑把にまとめれば、パターン学習までの能力が感情的システムであり、イメージ能力からが理性的システムという事になる。
よく感情と理性は全く別の対立するものとして語られるが、こうした観点からすると原則的には理性とは感情をむしろ補助するシステムであり、最終的な目標は一にしている。時に矛盾が起きるとはいえ、生命であるからにはあらゆる行動の大本に「生存」がある事を忘れるべきではない。