跳慮跋考

興味も思考も行先不明

側性と分離脳

脳の機能的な非対称性は「意識の座」がどこにあるのか、という問いに重大な示唆を与える。

側性

側性(laterality)とはある機能が、左脳と右脳の片方に偏って存在する事を指す。

側性が顕著なのは言語能力で、右利きの場合は殆どの人間が左脳に言語能力を持っている。左利きの場合も左脳にある事が多いが、一部は側性が見られなかったり右脳にあったりする。これは和田法と呼ばれる、薬剤によって脳半球の活動を一時的に低下させた上で会話できるかテストするという、やや恐ろしい方法によって確かめられる。

空間能力は右脳(言語の逆)に側性化しているとされたりするが、実のところ右脳には外界の絶対座標的な把握が関わるのに対して、左脳には自己中心の相対座標的な把握が関わっているらしい。

分離脳

二十世紀の半ば、癲癇の症状が両半球に広がる事を避ける為に、脳梁などの両半球を繋ぐ組織を切断する交連切断術が行われた。
こうした分離脳の患者は、意外にも日常生活の殆どで困難を示す事がなく、意図的に両半球へ異なる入力を与える様デザインされた実験でもないと影響を見つける事ができなかった。例えばキメラ図形の実験は以下の通りである。

キメラ図形(chimeric figure)は二つの半分の絵が配列されたものからできていて、患者は二つの半分の刺激の間の垂直の分割線を注視する。これらの刺激は輪郭の絵からできていることもあるし、顔のようなもっと複雑な絵の刺激であることもある。ひげをつけ、帽子をかぶった老人の左半分の顔と、ブロンドの女性の右半分の顔から構成されたキメラ図形を見せると、予想されるように、患者は魅力的な若い女性を見たという。左側の言語半球だけが、刺激の右半分について知っているからである。ついでに言うと、患者は図形がキメラ図形だとは知らない。そしえ自分が見たものには、なにも異常な点はないと報告する。それと同時に、左手は、たくさんの顔の選集(そのなかには老人とブロンドの女性の完全な顔も入っている)のなかから、老人の顔だけを選ぶだろう。もし患者に、あなたの反応はおかしいと指摘すると、彼は取り乱したように見え、この混乱を解決しようとして、ヘア・スタイルが、どちらかというと、帽子のように見えたと意見を言うかもしれない。

(J゠グレアム゠ボーモント『増補版 神経心理学入門』青土社、安田一郎訳、p.267-268)
確かに情報は断絶しており、それぞれの脳半球において患者は別々の認識を行っているのである。それだけでなく、それぞれが見たものを選ぶという教示を理解して遂行している。
大抵は言語野の反対で命名や発話が行えないのだが、一方で十分に構文的・意味的な処理は行えるのだという。これは違いが処理のメカニズムというよりも寧ろ、処理対象の形式にある事を示唆する。

ジェームスの症例

上に引いたボーモントは非常に慎重(そして誠実)で、個々の患者の観察を一般化する事に非常に消極的だが、とはいえここで一人の患者ジェームスの例を見る事は大いに参考になるだろう(R゠キャンベル『認知症障害者の心の風景』、本田仁視訳、福村出版、第10章)。
彼は子供の頃に事故で負った傷からかてんかんを発症し、脳梁・海馬交連・前交連を全て切断する手術を受けた。彼は右側の視界(左脳へ入力する)に提示された物しか名前を言えない等の典型的な症状の他、記憶力の低下や地誌的見当識の障害を示した。地誌的見当識の障害とは要するに「頭の中の地図」が失われる事であり、見知った筈の場所でも道が分からず迷子になってしまう。(これはちょっと「日常生活に支障がない」と言ってしまっていいのか気にならないでもない。)

分離脳の協調

さて、分離脳の患者は何故重大な障害を示す事なく生活を続ける事ができるのだろうか。一つには長らく同じ経験を積んだ事での両半球の類似性があるだろうが、もう一つは感覚情報を経由する外界での情報共有があるだろう。
そもそも物事の認識について言えば視覚であれ聴覚であれ両方に入力するし、手で何らかの作業を行う場合ならば、片方の手の動きからその意図を推定する事ができる。外界には通常考えられている以上に人の思考や意図が表出していると言えるかも知れない。また皮質下では眼球運動の伝達も起こるという。
ただこうした迂回的な情報伝達の方略は初めの内から巧く作用する訳ではなく、先のジェームスは「私の左手は、時々出しゃばることがある。左手が現れてきて、私の右手を叩いたりする。右手で水を出していると、左手がそれを止めてしまう。タバコを吸っていると、左手がタバコを口から奪い取って、捨ててしまう。時々、私はそれをコントロールできないことがあり、なぜこんなことが生じるのか理解できない」(同p.252-253)と述べている(他人の手徴候)。