跳慮跋考

興味も思考も行先不明

『ヒトはなぜ笑うのか』を読みました

「面白さの調節ってかなり大変なんじゃないの」という話を書いた流れで、『ヒトはなぜ笑うのか』(シュー・M・ハーレー、ダニエル・C・デネット、レジナルド・B・アダムズJr.、片岡宏仁訳、勁草書房、2015)を読んだ。

手短に

この本の主張はざっくりと言って「ユーモアは無意識的な確信が誤りだと発覚した(事を認識した)時、そのエラー検出に対する報酬として発生する」というものである。そうした誤った確信(誤信念)を放置していると連鎖的に誤信念が生まれて危険(生存に不利)なので、ユーモアという情動によってそれに正の報酬を与える事は、進化的に十分な利益がある。[p.190]

マフィンが二つ、オーブンのなかにある。一方のマフィンがこう言った、「おい、ここはあっついなぁ!」するともう片方が答えた。「うわぁ、マフィンがしゃべってる!」

[p.232]このジョークで言えば、最初の台詞でマフィンが喋るという仮定がほぼ無意識的に導入されるのだが、もう一方のマフィン自身がそれが驚く事でその仮定の非現実性を唐突に指摘されるという形になっている。我々が虚構の文脈として妙な仮定を平気で受け入れていた事に、当の虚構の中から咎められるのである。

詳細に

ハーレー達はユーモアの発生する必要十分条件を次の様に同定している。[p.205-206]

  1. メンタルスペース内に活性化した要素があり、
  2. それは(理由はどうあれ)暗黙裏にそのスペースに入り込んでいて、
  3. そのスペース内で真だと受け入れられており(i.e.認識的コミットメントがあり)、
  4. それが当のスペースで偽だと判定される――「偽」とたんに「認識的な調停プロセスで敗者だ」という意味だ
  5. そして、(自明ながら)その偽だという発見に、いかなる(強い)マイナスの情動的な誘因価もともなわない。

ここで下線を引いた語はやや説明を要する。

「活性化」という考えはハーレー達が理論の神経基盤を意識している事を示す。脳が具体的にどういったネットワークを実装しているかは特定していないが、とにかく感覚入力から想起された概念が連鎖的に様々な概念を想起させる事で、予測生成機能としての「思考」が走る(拡散賦活)。[p.174]
ハーレー達がジャスト・イン・タイム方式と呼んでいる様に「必要なものを必要なときに」想起する事で、フレーム問題の懸念は発生しなくなる。現実世界では行動するまでの時間に限りがある場合が多いから、そこで拡散賦活は打ち切られる。例えばコンピュータ将棋において考慮時間が切れたところでゲーム木の探索を打ち切るのは、こうした思考過程をよくモデル化していると言える。

「メンタルスペース」はフレーム、スクリプトと同じ様な文脈認知の為の心的構造だが、ワーキングメモリ内に動的に構築されていく。拡散賦活により活性化した知覚・概念は、このメンタルスペース上で一つの状況認知として統合される。[p.168]
メンタルスペースの切り替えは非常に頻繁に起こり、例えば「この絵の中で……」「もし~とすると……」等の表現によって容易に新たなメンタルスペースが構築される。上に引いたジョークの様に、このメンタルスペース内では非現実的な状況も容易に受け入れられる。問題となるのは飽く迄もそのメンタルスペース内部での整合性である。

「コミットした」信念とは、我々が何ら疑いを持たずにそれを根拠として行動する様な信念を言う。[p.188]先のジョークで言えば、受け手がユーモアを感じる為には「マフィンは喋る」という信念が「信じてよいか疑わしい事」ではなくて「当然そうである事」としてメンタルスペースに導入されなければならない。
コミットメントは行動によって表出する。例えば足場が頑丈である事を単に知っているのではなく、その信念にコミットしている事は、恐る恐るではなく自信満々に足を踏み出す事で他人に対して表現される。他者の行為に対して感じるユーモア(三人称ユーモア)では、この行動によるコミットメントの表示が重要な要素となる。「自分の身を削らずして、どうして人が騙せよう」

凡そ主張はユーモアの本質をよく捉えている様に思われるが、「信念」という言葉の使用にはやや違和感がある。例えばハーレー達は擽りによって感じられる可笑しみもユーモアとして以下の様に説明している。つまり、擽りの感覚は昆虫等が肌を這い回る時の触覚パターンが原形であり、危険信号として検出すべきものであった。人間による擽りでは高次の信念によりその危険は否定されるが、知覚による信念の方が原始的であってその発生を阻止する事はできない。よって継続的に信念が衝突しあい、ユーモアが発生し続ける――。しかしの「知覚による信念」とは幾分奇妙な概念ではないか。

文章の読解から得た「マフィンは喋る」という信念と、擽りの知覚から得た「身体に危険がある」という信念が脳内で同じ表現を取っているとは考え難い。神経回路を念頭に置きつつも、ハーレー達の議論は「推論する機械」の如き記号主義的な知性観に偏っているのではないかという気がする。

Did you hear about the fellow whose whole left side was cut off? He's all right now.
(「左半身がすっかり切りとられたヤツの話、聞いたかよ? いまじゃすっかり大丈夫オール・ライトだってよ。」)

[p.225]このジョークでは all right を慣用に従って「大丈夫」と解釈すると意味が通らない。そこで文意をちゃんと検証すると、左が失われたので残ったのは右側なので、all は強調であって all right は「右側だけ」と解釈すべき事が判る。
ここで我々は「この all right は『大丈夫』の意である」という信念を導入していると言えるだろうか? それは単に表象へ解釈(意味)を附している(この能動的表現は慣用に従ったものだが、実際には拡散賦活による自動的過程だ)だけで、「信念」と呼びうる何某かが生じている訳ではないだろう。

次の様な状況を考えてみる。

Aはその日誕生日であったが、チームの誰にも教えていないので何もないだろうと思って、すぐ帰ろうとした。しかしメンバ-に呼び止められ、意外にも誕生日祝いを受け取った。

これは無意識的に導入されかつコミットされていた思考が誤りだと分かった例だが、それでもユーモアが生じそうな状況でない。これをユーモラスな小話にするには、例えば次の様な変更が考えられる。

Aはその日誕生日であったが、リーダーは「今日は早く帰れる様にしよう」と言ったので何もないだろうと思って、仕事が終わるとすぐ帰ろうとした。しかしメンバーに呼び止められ、意外にも誕生日祝いを受け取った。リーダーの言葉はAの誕生日祝いの為に仕事を早く切り上げようという事だったのだ。

これならAは「はは、なーんだ」と可笑しみを感じられるのではないだろうか。ここで何が付け加わったか? それは誤信念が単に覆されるのではなく、よりよい解釈があると判明した事だ。こうした事例を踏まえると、ユーモアの状況で誤りと判明するのは「信念」ではなく「解釈」と考えるべきではないだろうか。

解釈の対象は暗示的である場合もある。

空港の受付で、男が係員に話しかける。「このカバンをベルリンに送ってくれ、あと、こっちのはカリフォルニアに、それからこっちのはロンドンに頼む。」係員が答える。「申し訳ありません、お客さま。そうしたことはできかねます。」すると男が言い返す。「そんなばかな。前にあんたンところを利用したときには、そっくり同じことをやってくれたじゃないか。」

[p.318]この場合、ユーモアが発生するには預け荷物が訳の分からない場所へ運ばれてしまうという空港でのよくあるトラブル(ロストバゲージ)を思い起こす必要がある。男はそれをサービスの一種と勘違いしている、というところが要になっている(男は単に揶揄していて、「男は」というより「男の話の中では」の方が適切なのかもしれない)。
この男の頭の中として形成されるメンタルスペースではロストバゲージを一つのサービスと解釈しているのだが、よりメタな我々の視点からするとそれは明らかに単なる不手際と解釈される。

しかし解釈による説明も滑稽さの様な部類はやや説明が難しい。例えば物真似の面白さが「様子はいかにもXのものだと解釈できるが、実際はそうではない」という形式で捉えられなくもないが、果たしてどうだろうか。