跳慮跋考

興味も思考も行先不明

感情と魔女と

稀少なこのブログの読者はタイトルを見てまどかの話と思うかもしれないが、それは半分当たりで半分外れだ。

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我々は未だ「近代」の只中にいる。
いかに過ちを犯そうとも「理性的なもの」は未だ人々の主権を握り、その判断を指導し続けている。唯物論的宇宙観を自明かの様に教え込まれ、確率論による選択の評価を正しいものと信じている(たとえ従わないにしても)。
いわゆる理性的判断とは確かに一般的な意味での幸福を得るのに適切で、感情的な判断より「よいもの」と言える。だがそれを敷衍して理性主義("合"理主義という言葉はその自明さへの批判として適切でないだろう)に走り、「感情的なもの」を悉く疎外する事が果たして適切なのか。
現代における宗教(取り分け日本における新興宗教群)の在り方は、そうした感情的なものの拠り所となっているかの様に私の目に映る。
うつ病はこころの風邪」というコピーと共に近年では精神医学による回収が進んだが、それでも科学が個々人を救うのは難しい。自然科学とは普遍性の追求であり、どんな偶然も説明する事がないからだ。
一方で宗教は大きな物語を持っている。その構図の中ではあらゆる物事が意味づけられ、個人の不幸でさえ「神が与えた試練」などと説明する事ができる。しかし大抵はあまりにも大き過ぎて世界の実態(再現性のある知識としての科学)に適合せず、更には全体的・中央集権的であったりする。
ついでに言えば、リソースの競合下において理性主義の選択は得てして強者の味方となる。主要なもの(dominant)により利益を享受させる方が、より社会全体として幸福になると考えられるからだ(尤もここには幸福が定量・比較可能であるといった強い仮説が多く潜んでいる)。理性主義はこうした点で個人主義(⇔共同体主義)かつ自由主義(⇔社会主義)的な傾向を示す。
こうした状況で主要でないもの、周縁的なものにとって丁度良いのはどの様な体系なのか。
魔術(ウィッチクラフトこそがそれであると、私は『現代・魔術・"女"』をその様に読んだ。

主宰の汐月陽子氏(直感的には「さん」だが全体の整合性を重視しておく)とはそもそもマギアレコード(まどか☆マギカのソシャゲ)のプレイヤーとして知り合ったので、この書も読んだのも氏が書かれたマギアレコード関連の稿を目当てとしたところが大きい。しかしながら、というか冒頭の語り口ですぐに分かるだろうが、私の普段の思考を纏め上げるのに資するところが多分にあり、面白い内容だった。
私は究極的な理解とは同化として現れると思っている。ある概念を十全に理解したとき、それは恰も原初より存在していたかの如く自明に世界の中に認識される。(この「同化」という語もジャン・ピアジェによる。)そうすると傍から見れば全然私自身の言葉の様に映ってしまうので、上では太字で『現代・魔術・"女"』から得た概念を明示した。

永田希氏の稿は理性主義の経済的な側面、無限に浸透する資本主義を指摘したものだと思うが、サイボーグフェミニズムについては一読ではピンと来なかった。人間と機械の融合のどこがフェミニズムフェミニズムはこの社会における最も古い周縁的なもの=女性により魔術と結び付く)と結びつくのか?
しかし後の汐月氏の稿を読みながら魔法少女に思いを馳せると、不意に理解の契機が得られた。それは魔法少女の身体、「契約」により器物となったそれこそ好例なのではないかという事だ。自分の中に異物を見つけた瞬間が周縁的なものの始まりなのかも知れない。

あだなみあわい氏の稿は分析・内省の重要性を指摘するものとして読んだ。
私の世界観は完全に唯物論という訳ではないにしろ実証を重んじ決定論的なので、「勘」がブラックボックスであるにしろ内的な機構を仮定してしまう。つまりそれは経験に基づく現象論、パターンマッチによる無意識下のシステムであり、我々はそれをよく分析する(分析哲学の様な意味合い)事で言語的・記号的な表現へ昇華させる事ができる。
こうした思考も理性主義的と捉えるべきだろうか?

月氏の稿については、まず西尾維新からの文脈が形作られている点が興味深かった。
化物語という作品のキャラクター造形は、明らかに精神疾患を意識してなされている。戦場ヶ原ひたぎは一見クールな美少女だが、その実は過去のトラウマからくる離人症を呈している。優等生の羽川翼は過酷な家庭環境のストレスから解離性同一性障害を患う。(毎度言うが私は専門家ではないので読者は鵜呑みにしない方がよい。)「怪異」の超自然的な現象とてこれらの身体化に過ぎないのだ。
よって怪異の解決も精神疾患の治療として行う事ができる。戦場ヶ原ひたぎへの治療は正しくフロイトの行った催眠療法そのものだ。
こうした指摘を見掛ける事がずっとなかったので、大して注目されていないのかとも思ったが、果たして私の観測範囲の問題だったらしい。

さてマギアレコードだが、この作品はシャフトや劇団イヌカレー(の泥犬氏)の参加からも見て取れる様に『魔法少女 まどか☆マギカ』の正当な後継者たるべく作られている。とはいえ過酷な物語の元凶とも言うべき脚本の虚淵玄氏は特にシナリオに関わっていないのだが、それでもこの作品が『まどか☆マギカ』だと言えるか。
私は躊躇いなく「そうだ」と言いたい。それはまどかの本質が心理的リアリティにあると考えているからだ。
鹿目まどか美樹さやかは決して巴マミの死を乗り越えなどしない。特にさやかはマミの在り方を理想化し、他の魔法少女への反発感を生んでいるのが見て取れるだろう。
一つの象徴的な場面は最終話のまどかの深呼吸で、これによってセカイ的な結末であっても聖人の如き純な覚悟ではなく、やはり一人の少女としての選択である事が強く印象づけられる。揺れない意志・完全な理性の持ち主というのは、本来人間ではありえない筈なのだ。宇宙の寿命を延ばすという大きな物語の名の下に、最大多数の最大幸福を掲げて魔法少女を削ぎ落とそうとするキュゥべえは、悪意の存在ではないにも拘わらず明白な敵として立ち現れる。
話が逸れたが、暁美ほむらにしても「眼鏡っ娘」「タイムトラベラー」「転校生」といった極めて文脈の厚い記号を帯びながら、それでは終わらないパーソナリティが確かに息づいている。実に第一話、巴マミに邪険にされて立ち去る瞬間のぎゅっと目を瞑る瞬間から、彼女の心の揺れは随所で描かれてゆく。

斯かる心理的リアリティが、マギアレコードにも確かに込められているのだ。
例えば水波レナは一見標準的なツンデレかの様な造形でありながら、やや乱暴な言動はむしろ自信の無さを覆い隠さんとするが為のものであり、そうした自分の在り方に侭ならなさを抱えている。綾野梨花は典型的(現実的とは限らない)なギャルとして描かれながらも、人の気持ちの重みについて深い後悔を抱えている。個々の場面まで挙げれば切りがないが、とにかくキャラクターそれぞれが真に一人の人間として生き、思考している。
まどか☆マギカ、そしてマギアレコードに時代性があるとすれば、それはこうした心理的リアリティの一貫した追求と不可分なのではないだろうか。