跳慮跋考

興味も思考も行先不明

正義と善:マギアレコード第1部に寄せて

マギアレコード第1部において、環いろはは決して正義を語らなかった。

彼女は「べき」を語らない。「間違っている」という言葉に、「何者かを傷付ける」以上の意味を込める事は決してない。それは物語上の敵に当たるマギウスに対しても変わらない。

それはね、それは、それはだめだよ…
(メインストーリー第7章17話)

犠牲とされる人々の痛みに、また罪を背負う相手の痛みに共感し、苦悶の表情を浮かべながら、この様に語り掛ける。

環いろはの善

共感による倫理は一般に、素朴で一貫性のないものと考えられがちだが、それは共感自体とは違うところに問題があるのではないかと思う。例えばクジラはかわいそうだから保護する、それはそうとしてカンガルーは増えすぎたから殺す、といった立場を一つの確立した倫理観とは認めがたいだろう。(反捕鯨に熱心なオーストラリアの事だが)
そこには恣意性が存在している。何に共感し何にはしないか、どこで共感を打ち切り「敵」と見做すか、その境界が明らかでない。人間は得てして敵を持つ事により共感の倫理を不完全なものとしてしまうのだ。それをどうやって克服するのか?

一つには守るべきもの、なすべき「善」とは何かをはっきりと言語化する事で、恣意的な要素を削りきちんとした倫理観を築く事ができる。ソクラテスが「美とは何か」といった問いをアテネで連日議論して以来、この言語化こそが西洋倫理学における倫理観、「正義」の在り方であった。

しかし一方では、絶対に「敵」を設定しない、という方法もあり得るのではないか。
困難を抱えたあらゆる者にひたすら寄り添い続ける、それもまた一つの倫理観として成り立っているのではないか。単純な勧善懲悪から正義とは何か、といったテーマ性の大きな流れがある中で(この点については「「けものフレンズ」1期と2期の物語構造の違いを真面目に考察してみた(2万文字記事)【物語論】 - ”Notice" homla's blog」を参照されたい)、環いろはは全く正義というものを語らずにこの「普遍の共感」を貫き通した。彼女は一見ただの狂人であるアリナ・グレイにすら「さん」付けをやめなかった。そして後のイベント「巣立ちは空を見上げて」ではアリナのみならず、キュゥべえにすら理解を示したのだ。

「善」とは「したい」で表される欲望とは別の、「すべき」事、人々の為になる事を指している。その意味でマギウスも確かに善を目指したし(思い出した後の柊ねむが言う様に半ば私欲ではあれ)、アリナも、キュゥべえですら善だ。
マギウスの面々(少なくとも里見灯花と柊ねむ)はういの喪失によりかなり倫理観を損なったとはいえ、自らの行いが人類の為になるものだと信じていた。アリナ・グレイは彼女の感性・価値観に基づき、滅びが人々の望んでいる事だと確信した(立脚点がどうしようもなく一般人と隔たっていただけで、アリナ自身は真摯に何をなすべきかについて検討した、この点は大いに強調したい。まぁプレイヤー全員がアリナやホーリーアリナの魔法少女ストーリーを読める仕様ではないので仕方がない面もあるが)。キュゥべえはあまりにも長期的視点に立っているものの、取り組んでいるのは社会保障環境保護に関して浮かび上がる世代間倫理の問題そのものだ。いろははそれらの全てを包摂しようとしている。

環いろはには「敵」が存在しない。いろはは善意によって行動するが正義によってではない。主人公としてこの姿勢を保ち続けたのは驚くべき事ではないだろうか。

翼という弱者

ストーリー上の「敵」であるマギウスの人員「マギウスの翼」に対しては、繰り返し「弱者」としての在り方に寄り添う描写がなされてきた。とりわけ印象的なのは「アラカルトバレンタイン〜みんなの気持ちの届け方〜」イベントにおける黒だろう。「Whereabouts of the feather」でも二人の構成員がフォーカスされ、この三者ともがプレイアブルとして実装された。
また広い観点では、そもそも魔法少女自体がそれまでの自らの人生で考えるところあって魔法少女になったという事実がある。魔法少女それぞれに魔法少女ストーリーという形で寄り添うマギレコそのものが、弱者とは限らないにしてもある種の「周縁的なもの」の側に立つ性質を持つと言える。

ただ一方で、みかづき荘の面々は翼達に対し一貫して強硬姿勢であり続けた。「私は私が信じるワガママを通すわ」と言った七海やちよの発言(第9章22話)が象徴的だろう。やちよに比べるとかなり対話的ではあるものの、いろはも「私のためにマギウスを止める」「それが、私のワガママだから」(第9章17話)と述べている。
コミュニティを成り立たせる合意を破った者にはこちらもその域を越えて力を振るうしかない(この場合は「一般人を守る」という神浜の魔法少女コミュニティにおける暗黙の合意を破った、という事になるだろう)、この社会契約説の裏返しの様な論理は他の物語でもよく見られるものだが、翼達が弱者としての属性を持つが故にここでは「強さこそ正義」という面が目立っている。神浜は力が支配する世紀末状態となってしまうのか?

しかしそうではなかった。結局第1部はいろは達の意向に沿った大団円で終わりはするのだが、いろはは決して浮かれてはいなかった。彼女は翼達の問題意識に対して深い理解を示し、何事も終わったのではなく、むしろようやく始まったと考えているのだ。

ようやく同じことを知り 同じことに悩むようになった
みんなが立ったスタートライン 解放への物語は きっとここから始まる
(第10章5話)

他者の問題意識を深刻に、自分の身を切り時間を割いて取り組むほどに重く受け止めるのは本当に難しい。歳を取ったからといってできる様になるものでは全くない。
彼女はマギウスの取った方法については間違いだと考えているものの、決してその目的については軽んぜず、翼達の痛みに真摯に向き合おうとしている。これこそ「普遍の共感」であり、環いろはの善だ。

恐らくはマギウスの二人が元々知っている(筈の)人物だったから、そうでなければここまで戦う相手に歩み寄る事はなかったのかもしれない。その容易には受け止められない現実へ真剣に向き合い続けたからこそ、彼女は本当に何者にも寄り添う人間となった。第1部に触れた人々に何よりも知って欲しいのが、こうした環いろはの劇的とも言える人間性、善なのだ。

全ての魔法少女の名において

直後に開催された「ユメミルサクラ」は、マギレコ自体としても翼達を含む神浜の魔法少女全体への意識がはっきりと示されたイベントだった。(ただそう解釈すると、殆どの意見書がプレイアブルの魔法少女が書いた物と見られる点は不可解になってしまうが。いやあの「勢いで死んでって言ってしまいそう」からは、確かに名も無き魔法少女の意思を汲み取るべきなのだろうか?)
ここで描かれたマギウス達の裁判は、やちよ等の思惑としては神浜の魔法少女の処罰感情を解消する建前上のものであったが、灯花とねむはそれに反し、自らの倫理観に照らして極刑も止む無しとした。

やちよ達の考えは身内贔屓ではあるが仕方ない面もある。戦後処理が公平に行われた例は歴史上あまりにも稀であり、イギリスはケインズの反対にも拘わらずドイツに多額の賠償金を課したし、アイヒマンについて「悪の陳腐さ」を主張したアーレントは激しい批判に曝された。何者も「敵」としないのはそれほど難しい。だが灯花とねむは全て覚悟の上で桜子(万年桜のウワサ)の判断に干渉しなかった。
結局彼女達は神浜の魔法少女コミュニティへ判断を委ねた。上述の様にマギレコは繰り返し一般人に対する魔法少女、戦える魔法少女に対する翼、神浜中心部に対する大東といった、様々に周縁的な存在へ目を向けてきた。それを踏まえても尚、第1部の終結を迎えて「勝てば官軍」とならずに主人公側でない者、大衆の感情を掬い取ろうとする姿勢は驚くべきものではないだろうか。

実際、マギウスの企図が破られたとしてもそれで終わりではない。灯花もねむも神浜にいる限り、救済を求めてしかし救われなかった魔法少女達、マギウスの所業を赦せなかった魔法少女達、その全てと共に生きていかなければならないのだ。個々の魔法少女への高い解像度から浮かび上がるこうした社会的現実に、確固として向き合っていく姿勢。それがはっきりと示された点で「ユメミルサクラ」は特に印象的なイベントだった。

ポストモダンの渦中の光

正義とは言語化と不可分ではないかと上に述べた。言語化は同時に概念化(抽象化)でもある。「救うべき者」が個々人ではなく何らかの概念として結実した瞬間に正義が生まれる。

まどか☆マギカ』本編において鹿目まどかも様々な魔法少女の結末を知り、彼女達を「希望を信じた者」として概念化した。だが抽象と捨象は表裏一体であって、必ず取り零しが生じてしまう。他ならぬ暁美ほむらこそ、その正義によって救われない人間だった。だからこそ『叛逆』に至った。ほむらは決して自らの欲望のみで叛逆を図ったのではない、いくらか衝動性があったとは言え「なすべき」と思う事をした(この辺りは別の機会に詳しく書きたい)。その意味ではまだ善であった。それでもまどかの正義を否定できなかったからこそ、自らを「悪」と位置付ける他なかった。まどかは答となる正義を提示し、それ以外は正義ではなくなった。叛逆に至るまではそういう物語になっている。
マギレコは魔法少女が結束してワルプルギスの夜を倒せたら、というもしもの世界になっているが、また答を出さないという意味でももしもの世界だと言える。自らの善を正義に結実させないからこそ、環いろはは何者をも救い得る。

大きな物語」の終焉、あらゆる既成の価値観への批判・検証、我々の世界では今そうしたポストモダン的潮流が進行している。「ポストモダン」とは輪郭が掴み難い概念だが、西洋的理性を典型とする絶対的な価値、中心と周縁という図式、その他あらゆる「当たり前に主と見做されているもの」の批判がモダン(近代)への反省として込められているのではないかと思う*1ソーカル事件の様な事案もあり一種の「ブーム」が衰退したとしても、我々の現実が嘗てなく解像度の高いポストモダン的なものになっているのは確かだろう。今やどんな社会的活動であっても人々の多様性を意識しない訳にはいかない。

ここでの議論に照らして言い直せば、現代のポストモダン的状況とは西洋流の「正義」が限りない多様性に直面して根本的再編を迫られている、という事になる。先に引いたブログに述べられている「勧善懲悪の否定」も、こうした思想の変遷に呼応しているものと解釈する事ができる。そして環いろはの「普遍の共感」は、この文脈から理解する事で真に善として、正義とは異なるが尚力強く人を駆り立てる一つの善として、燦然たる輝きを見せるのである。

終わりに

まどか☆マギカ』の本編と叛逆が一つの正義とその崩壊を描いたのだとすれば(勿論私は緻密なキャラクター心理を『まどか』の本質と理解しているので、これは様々に可能な解釈の一つに過ぎない)、マギレコは概念化・単純化せず、あらゆる魔法少女に対してより真摯に向き合おうとしている。

環いろはの思想が完成されている、という訳ではない。桜子の魔法少女ストーリーでの教育、ういの魔法少女ストーリーでの説教などを見ると、その振る舞いはむしろ保守的な教育者像を思わせるものもある。(これはもしかすると七海やちよの影響もあるのかもしれない。)しかしそうであっても、彼女が第1部の結末を「スタートライン」と言い切った事の重みは寸分も変わりはしないのだ。

環いろはの道程はワルプルギスの夜を倒すより一層困難であるかもしれないが、しかしそれでも、彼女の志には与するに十分な輝きがある。それがこの先魔法少女にどういった運命を齎すのか、マギアレコードという物語がどんな道筋を辿るのか、一プレイヤーとして楽しみに思う。

*1:モダニズムとはある固定的解釈をある社会集団が特権化している立場であるとすれば、他方において、ポストモダンとはまさにそのような特権を否定し、複数の声が主張できるスペースを切り開く立場である」太田好信『トランスポジションの思想 文化人類学の再想像』世界思想社、176頁。竹内聖乃「ポストモダン人類学の代価について」に引かれているのを見付けて出典を確認した。