跳慮跋考

興味も思考も行先不明

本物と、本物と見分けのつかない偽物

例えば、自由意志。
君の今感じている自由*1が、もしも脳内の神経生理学的・物理的過程の産物か、世界シミュレータにより計算されたものか、将又「神」か何かにより感じさせられているものだったとしたら、なんて話は信じたくもない事だろうか?
私としては、そんな事はどっちでもいいだろう、と思う。
何故なら、「今自分が自由だと感じている」事は紛れもない事実だからである。作られた感覚であろうと何であろうと感じているものは感じている。
唐突に「神」だかシステム管理者だかが出て来て「君の意志は全て私が入力したものなんだよ」と言われたところで、「はぁそうですか」以外にリアクションのし様がない。もし其奴を一発殴ろうとしてどうしても出来なかったりしたらちょっと不愉快かもしれないが、抑々殴ろうとする意志自体を抑止されたら検証する事も侭ならない。
つまり「従わされてる」感じがしたら私も不快だと思うのだが、それは前提たる「自由を感じさせる」事に矛盾してしまう訳である。
とすると私はまぁ自由自在に生きるのみで、ならばその私の意志について一々「制御している」と感じる「神」か何かの方がよっぽど不自由ではないだろうか?

例えば、科学理論。
物理学はどこまでも「根本原理」を追い求め、今や超弦理論などの実証を遥かに超越した「仮説」を提出するに至っている。
こうした仮説の帰結は現実の事象を正しく説明・予測するかも知れないが、本当に世界が「ひも」で出来ているかどうかを実験で確かめる事は、少なくとも現在の技術では出来ない。
もしも検証が未来永劫不可能だとすると、この世界の各粒子は実際には「ひも」でない何かによって構成されているという可能性も排除できず、仮説は決して確証を得ず、実用性だとか論理的整合性によってしか正当性を示せない。
この場合「本物と見分けのつかない偽物」というのは何だか不満の残るものの様に思われるのだが、これは私の科学への絶大な信頼に因るものであろうか。

今回の題は最近観たアニメ『偽物語』に、科学理論の話は読んでいる本『科学哲学 なぜ科学が哲学の問題になるのか』に着想を得た。
何が言いたかったのかというと、別に私の触れる物事の中に偶然の符合があったりすると面白いなってだけで、まぁ纏まりの話で申し訳ないね。

*1:もしも今自由でないのなら、こんなものを読むのは止めて、直ちに己の生き方について検討するべきだ。破棄できない柵なんて一つもないのだから。