跳慮跋考

興味も思考も行先不明

再びまどか☆マギカの話

実に二年振りだがそれはどうでもいい。
久し振りに『叛逆の物語』を観た。

前半の楽しく魔法少女をやっているところは、昔映画館やBD買ってから何度も観ていた時には「そうだね、理想の魔法少女だね」くらいで正直段々と漫然たる視聴態度になっていたのだが、時間が空いてみるとまあ何と象徴的で諧謔的で美しく素晴らしいことかと感心しきりだった。
こういう図像だ何だへの嗜好は殆ど劇団犬カレー両名によって植え付けられたと言って過言ではないと思う。(残りはエヴァンゲリオンだろう)

最後に観たときは杏子が顎から上のないほむらに手を添えるところが一番涙腺に来たけど今度はもう全体的にダメだった、OPからしてアニメ本編を思うとダメだ。初めから泣きそうになる。
まどかに手を取られた瞬間ほむらの顔がアップになるときの髪の細かさが堪らなく好きだ。まどかが結びかけた髪がほむらの決意と共に解けていく様子もよい。別に髪の話ではなくて、そこに滲み出る心の動静が。
戦闘も素晴らしい。動きが良いのは勿論だが時間停止による行動停止を狙うのと引き替えに銃の射程が制約を受けるのとか(それがベベを落とした時の時間停止能力の挙動で予告されているのとか、確かここが「時間停止時に止まっていてもその後ほむらが触れば動き出す」性質の初出だったと思う)、「急所」で恐らくソウルジェムではなく頭のことを言っているのとか、マミさんが戦闘経験の差を見せつけて先輩の面目躍如するのとか。
ほむらに相談されたときのめちゃくちゃ訝しみつつもその真剣さに応えたりゲーセンから必死に飛び出したり上に書いたシーンとかの杏子の義理堅さも良いし、知っているからこそ「同情したくもなる」なんて言ってくれるさやかも良い(ちょっと調子乗ってるけど)。

ほむらとまどかについてはもう何も言うことはない。公開当初に記事を書いたとき以上にこの物語に情熱と思考を注ぐことは(続編でもない限り)もうできないだろう。
寂しいけども、では他の何にならそれができるのか?

誰かが「オタクになったきっかけの作品がそいつの嗜好を決定する」と言っていたが本当にそうで(「オタク」なんて自分で名乗るものではないと思っているので面映ゆいが)、「ああこれが私だ」と、正確には私の求めるものだが、そういう気分になるばかりだった。
学習という奴でどうしても追体験を求めてしまうのだろう。
趣味の偏りというのは所謂「常同行動」の類縁だと解釈していた(大雑把で非科学的推論だ)私としてはこの話はかなり印象的だった。
私の趣味の話をもう少しすると『ハッピーシュガーライフ』とか『告白』とかそういうのが好きなのも明らかに影響の結果だろう。
これは人間関係に対してもそうで、「重い話ができるほど仲がいい」みたいな考えがある。(言葉にしてみるととんでもない偏りだ)

作品の面白さというのは非常に個人的なもので、目新しさというのは重要な要素だと思うのだが、これは当然人によって、その当人の経験によって全く異なる。
時代々々の流行り廃りというものがあるので時には大多数の人間に刺さるかもしれないが、それでも全てではない。
ただ私という一個人の人格、経験にとってこの物語は鮮烈に過ぎ、「これ以上」が現れることなんて全く想像の埒外としか言えない。
それでもその追体験か何かを求めて来期の番組表を見るのだが。

なぜ観たのかという話だが、それは今日が私の誕生日だったからだ。セキュリティの事情でこれは秘密だけれども。