跳慮跋考

興味も思考も行先不明

論理と価値観

人間の知識(命題)は経験や情報伝達によって獲得され、また「推論」で述べた様な推論能力から新たな命題が生み出される。これらは確かとは限らないが、一方で人間の「論理」と呼ばれる能力は、既知の命題から必然的に成立する命題を導く。

形式論理

論理システムは形式論理、中でもゲルハルト゠ゲンツェンの自然演繹としてモデル化される。命題論理の自然演繹であれば、特殊な命題⊥(矛盾)と以下の記号で命題が構成される。

  • ¬(否定、~でない)
  • ∧(連言、かつ)
  • ∨(選言、または)
  • →(含意、ならば)

P と Q が前提としてある時 P∧Q が導入される、という様に推論規則が定義される。この推論規則は複合的な命題の構造を説くもので、論理的推論によって導かれる命題は全てその前提にある意味で「含まれている」といってもいいかもしれない。ただこれは人間の直観を全く超越した話であって、直観的に理解している(つもりの)前提から様々に非自明な命題が証明される事は数学の諸問題から知る事ができる。

価値観

哲学」で述べた様に、「どうであるか」を言う事実命題から「どうすべきか」の当為命題を導く事はできない。「べき」を含む主張には必ず観測事実からは導かれない当為命題(価値判断)が前提とされている筈で、その意味では純粋に「論理的な主張」というものはありえない。

例えば「原子力発電を利用すべきか」という問題を考える。原子力発電の特徴として

等が挙げられるが、これらは事実命題であって、それを「べき」に繋げるのは各人の価値観である。

  • コストは低くあるべき
  • リスクは小さくすべき

といった広く共有された価値観(常識)によって、ある程度は共通の判断が下されるが、人によって判断の分かれる要素もある。また競合する価値判断のどれを優先するかも異なる。(そもそも「原子力発電は良い」「原子力発電は悪い」というざっくりしたレベルの判断が先行する場合もある。)

価値観も概念に紐付いていると考えれば、経済学で言う効用関数に近いイメージで捉える事ができる。生理的な嗜好・嫌悪は扁桃体などが基盤となっており、またより社会的な善悪は新皮質の働きに帰せられるものと考えられる。

矛盾

進化心理学的に言えば、矛盾は情報伝達における虚偽のシグナルであるから、その検出には十分進化的な価値があると考えられる。

一方で、上に述べた常識(共有された当為命題の集合)は端的に言って無秩序であり、相互に矛盾する内容を含む。(個人的には「弘法筆を選ばず」「弘法も筆の誤り」が共存しているのが印象深い。)

しかし古典論理排中律を認める体系)では爆発律、つまり ⊥→P「矛盾からは任意の命題が導かれる」が成り立つ。実際に常識の体系からは任意の事が言えるだろうか? これを現実的な文脈に落とし込めば、「フライパンは食べられない、しかし『弘法筆を選ばず』かつ『弘法も筆の誤り』というのはおかしい。よってフライパンは食べられる」といった具合になる。人の感覚からすると、関係のない物事についての矛盾から¬導入(背理法)を用いるのは不自然なのだ。

仮説生成的な推論に於いて人間の思考は自然演繹よりも自由に働くが、一方で論理推論に於いては、より限られた働きをする様に思われる。