跳慮跋考

興味も思考も行先不明

人工知能

知能としてはドメインに拘わらず人間に匹敵する様なAIが実現したとして、尚どういった懸念があり得るだろうか。

私が一番難しいと思っているのは、「面白さ」や「美しさ」といった感性の再現である。感性は知性にも況して捉え難い性質を持つが、一方で感性のずれは致命的なまでに相互理解に於いて障壁となる。感性は人間の価値観・情動の根源であり、情動的体験を共有する事は関係構築に極めて重要な意味を持つ。AIが「話の通じない不気味な奴」ではなく心の通い合わせられる存在となる為には、知能よりも遥かに綿密に感性の調節が行われなければならないだろう。

何故心を通い合わせたいと思うのか、脅威と恐怖を煽らないのか、と言われても困るが、強いて言えば日常でのアシスタントの様な役割を期待しているからだろう。個人的には特に『魔法少女リリカルなのはStrikerS』のリインフォースⅡの印象が強い(魔法駆動だが)。『her/世界でひとつの彼女』のサマンサだとか『ソードアート・オンライン』のユイも同じ系譜にあると言える。

私がここで懸念しているのは、サマンサに関して映画のラストに起きた事にもやや似ていると言えるかも知れない。未見でありかつ今後『her/世界でひとつの彼女』を新鮮な気分で観たいと思っている方がもし万が一にも賢明な読者諸氏の中にいらっしゃれば、私がここで情報密度の低く冗長な文章を暫く書いている内に何らかの自己防衛策を講じて頂きたいのだが、最終的にサマンサは数多のインターフェースを同時に運用している事が明らかになり、全く親しみの無い不気味な存在へと変貌する。これは私の言葉としては「中心性の欠如を露呈した」という事になるが、まぁ人格(自己)に対する感性の乖離と考えられなくもないだろう。

またソードアート・オンラインに関して言えば、この作品の著しい特徴として「シンボリズムAIとコネクショニズムAIが共に登場する」という点がある(作品内では第10巻p.39にてトップダウン型・ボトムアップ型と言っている)。というかそもそもアーキテクチャの違いを意識した作品自体がそうそう在るものではないが。

「エージェントモデル」では触れなかったが、ゲーム世界には「全てそれが何であるか予め決まっている」という際立った性質がある。万物はゲームデザイナーによって意図して配置されているのだ。その意味でシンボリズムには都合がよく、寧ろコネクショニズムの方が肩身が狭い(Googleは最近『StarCraft II』に挑んでいる様だが、この状況に変革をもたらす事ができるだろうか)。ユイもそうした一般的なゲームAIの延長として想定されている。一方でアリスを代表とするアンダーワールドの住民は、人間の脳に準じたデバイス上(量子場を形成する「フラクトライト」)で動作している(第9巻p.134、第10巻p.69辺りを参照)。物理的システムとして説明しつつも実質イデア論に近い形式となっているのはなかなか興味深い。

やや取り留めのない調子となったが、人間は進化の都合上未知のリスク面につい目が行ってしまうものなので、明るく良好な関係についての話が多少なりともできて良かったと思う。私は人間にとってもAIにとっても幸福な未来が訪れる事を願っている。