跳慮跋考

興味も思考も行先不明

キャラクターの「記号性」について

先の記事(『テヅカ・イズ・デッド』の解釈メモ - 跳慮跋考)で課題としたキャラクターの「記号性」について分析したい。

記号論における「記号」概念

まず記号論における「記号」概念について整理する。

日常的な言葉で「記号」と言った場合、特定の内容を表す為の習慣化された簡単な図像を指している場合が多い。しかし記号論の文脈では、図像に限らずあらゆる事物(実在物や概念)が他の事物を意味している(する様に意図し、またそれを読み取る)現象全般を「記号(現象)」として研究対象にしている。この様な記号観はソシュールが確立したもので、前者をシニフィアン(能記、シグニファイア)、後者をシニフィエ(所記、シグニファイド)と呼んだ。

また習慣化されているとは、つまりその記号の生成・解釈が共通の規則(「コード」と呼ばれる)に従って行われるという事だが、記号論ではより曖昧で文脈(「コンテキスト」)に依存しているものも「記号」の範疇としている。(参考:記号・表象・象徴

歴史的にも性質からしても記号は言語と結びつけて語られる事が多いが、図像についても例えば西洋絵画の持物(アトリビュート)を代表的な例として挙げる事ができる。持物は伝統的な西洋絵画において人物や神々を識別する為の重要な要素であり、三叉槍(トライデント)を持っていればポセイドン、竪琴や月桂冠を有していればアポロン、といったコードは現代の我々でも幾らか神話の知識として持っているだろう。ただたとえコードを認知していたとしても、我々は常に三叉槍を持っている者を見てそれはポセイドンだとか考える訳ではない。いかにも神話的な絵画だとか、ギリシア神話を題材にした物語に接した場合だからこそ西洋絵画の記号体系が有効だと思われる訳である。

記号としてのキャラクター図像

キャラクターの図像についての研究はあまり盛んでない様だが、足立(2015)はかなり詳細に具体的な構成要素を分析している。

まず注目したいのはキャラクターの「属性」について、田中桂のイラスト指南書を参照しながらそのキャラクターの内面を志向するものとして整理している点だ。(足立は「属性」を田中独自の概念としているが、「萌え属性」また「萌え要素」とも言われる時の「属性」と同じ概念と考えて良さそうに思われる。)

田中は〈属性〉は、キャラクターの性格や内面による特徴付けであり、キャラクターの内面に対するアプローチそのものだとする。

(p.126)

例えばピクシブ百科事典を参照すると、「属性」と捉えられるキャラクターの特徴は非常に広範で、殆どあらゆる特徴が「属性」となる様に思われる。つまり「ツンデレ」といった明確に内面的な特徴だけではなく、「黒髪(ロング)」といった外見的な特徴や「妹」といった社会的な関係も属性の典型例として含まれる。だがこうした属性を帯びたキャラクターに触れる場合、我々は常にその属性から受ける印象(性格、内面の特徴)を伴っている。黒髪であれば落ち着いて品行方正、妹であれば(様々なパターンがあるが)親密であるが主人公になかなか正直になれない、といった性格を連想し、更に言えばそうした人物に関する体験が期待されている。妹キャラであれば「だらしないと思っていた兄に助けられて見直すがそれを正直には言えず結局悪態をついてしまう」といった「それらしい」体験が実現される事を期待されているのである。(こうして内面の示唆は物語の体験全体にまで波及する。「キャラクター小説」といった表現はこうした状況を反映しているだろう。)

この様に考えれば、属性とはキャラクター図像の要素がキャラクターの内面を示唆している一つの記号関係として解釈する事ができる。属性は記号論的な意味での「記号」として機能している。

ただし、この示唆される内面は裏切られてもいいという点を指摘しておくべきだろう。黒髪でいかにも大人しそうなキャラクターが「実は」活発であっても、むしろその「実は」のところのギャップが独自の魅力を生み出す事は多い。その場合、属性は認知言語学に言う「参照点」(reference point)に近い働きをしている。作品のタイトル、ジャンル等が読者の読みを方向附ける様に(前田 1993 第4章)、属性はキャラクターへの読みの方向を提示しつつも自由度を残している。あるいは軸だけを規定し、その軸の両端へ振れる可能性を擁している。また属性は単に反復されるのではなく、常に新しい形での表出を求められ、属性そのものも更新され続ける(他作品と同じ様な属性を持ったキャラクターは常に「○○とどう違うのか」を問われ続ける事になる)。その意味で属性は極めて動的な記号体系を形成している。

歴史的な観点から付け加えると、大塚英志に拠れば、手塚治虫は自らの絵を記号論的な意味での「記号」として説明していたという(大塚 1994)。恐らくこれはキャラクター図像を更に分解するという段階にはなく属性の思考とは言えないだろうが、大塚はその記号説の出自を榊原英城を引きつつ手塚のデッサンコンプレックスの合理化と位置附けて、いわゆる「マンガ記号論」の無批判な援用を問題視している。

具体的な図像の選択

足立はキャラクター図像の要素を「キャラクターの固有性」「作家の固有性」の二軸で分類し、「キャラクターに固有だが作家に固有ではない」「作家に固有だがキャラクターに固有ではない」二極に収斂していく様子を見ている(6-1)。例えば顔の形がキャラクターの特徴としても作家の特徴としても考えられている時、メディア展開や二次創作では再現が難しい場合もある。すると原作とは異なる顔の形でありながら尚同じキャラクターとして名指される事で、その顔の形はキャラクター固有の特徴とは見做されなくなる。足立の触れている『まどか☆マギカ』で言えば、「横に長い五角形の顔の形」(放送当時「ホームベース」とも言われた)がコミカライズ等の展開では再現されていない点を挙げられるだろう。ただそれは抑々同じキャラクターとして提示する事を許容されていなければならない訳で、二極化の過程は吟味が必要な様にも思う。

キャラクターの固有性を示すのが「髪型や眼鏡などの小道具」に依っているのに対して、作家の固有性は「顔の形、目の形、口の形、さらにそれらの要素の大きさの比率の違い」に依っている(p.111)。この作家に固有な要素はまた、全体としてキャラクター図像の特性をも示しているのではないか。

キャラクター図像の一般的な意味での「記号」性、つまり省略や誇張について考えると、これはテクスチャの観点と形態の観点に分けられる様に思う。ここでテクスチャの方は、キャラクター図像としてあまり強くその高低を拘束されない。肌の陰影だとか、髪の質感だとかは「描き込み」の領域であって、クオリティは左右するがキャラクター図像としての認識を左右する事はない。(ただ美醜の基準によって肌の均一なテクスチャが志向されるような選択はあるだろう。)一方で形態は、目の誇張や鼻の省略という形で「キャラクター」らしさに寄与している。

太田・越智(2015)では、人間の女性において魅力的と評価される幼形特徴(大きい目)、成熟特徴(頬骨)、感情表出特徴(大きい口)について、キャラクター図像でも大きい目が魅力的とされる他、口も大きいよりむしろ幼形特徴に当たる小さい口の方が魅力的と評価される事を見出している。つまりキャラクター図像の形態の選択については、幼形特徴がかなり強く寄与している事を示唆している。また太田は太田(2020)で超正常刺激としてキャラクターの顔の極端な幼形特徴を説明している。

これは個人的な推測だが、幼形特徴は「他者でない」事を示す為に重要なのではないかと考えている。人は他人を見る時に多かれ少なかれ共感を示すが、この共感とは自他分離の程度を弱める事と捉えられる。自分を他者と同一視する事により、他者の情動が自分の中にも湧き上がる。自他分離は人間にとって自明ではなく、発達の過程で徐々に獲得されていく世界の或るモデルなのである。(ピアジェはこの未分離の状態を「非二元論的」と呼んだ。)「他者」でなければ、コミュニケーションに際して思いがけない裏切りを受ける事がない。例えば一つのシチュエーションとして「○○にフラれたい」というものがあるが、それはたとえはっきりとした拒否であれそうした意志疎通のできる相手と認定されている事が前提にあるのであって、多くの場合はある種カジュアルな(いや常識的なと言うべきかもしれないが、その一見アブノーマルなラベルとは裏腹な)限定を含んでいると言えるだろう。つまり実際にはただ「告白する」のではなく、様々な関係性構築が前提としてなっており、訳の分からない相手に動揺して逃げられるといった様なガチさは基本的に求められていない。こうした傾向の背後にはやはり未成熟な自我を確立していない者、「他者でない」者への欲求がある様に思われる。(断っておくが私はこうした傾向を非難する、新自由主義と一体化したマッチョイズムの信奉者が嫌いだ。)

結び

キャラクター図像の「記号性」について、記号論的な「記号」として内面を示唆する面と、超正常刺激としてより魅力的な形態を志向する面を見た。キャラクター図像はこの両面の複合によって独自の表現形式を確立していると考えられる。また眉を只の直線で描くなどの要素毎の形態の省略については触れなかったが、これは弁別性(認識のしやすさ)という点で記号論な「記号」としての効果を高め、伊藤剛の言う「キャラ立ち」をもたらすが故に選好される傾向がある様に思われる。

文献