キャラクター演出分析:『スライム倒して300年』よりフラットルテ
「鑑賞におけるキャラクター対パーソナリティ」において「再認と投影」「有限と無限」などの観点からキャラクター(「登場人物」一般に敷衍しても良いと思うが)の鑑賞、あるいは演出のされ方にはキャラクター性とパーソナリティ性の二面があることを見出したが、実際の作品では具体的にどう構築されているのか。
ここで今年春アニメ『スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました』(監督:木村延景、制作:REVOROOT)より、第10話で素晴らしいキャラクター演出がされていたフラットルテを対象にその分析を行ってみたい。
以下台詞や画の引用は全てdアニメストア配信版(©森田季節・SBクリエイティブ/高原の魔女の家)に依拠している。
目次
基本的なキャラクター性
フラットルテはアニメ公式のキャラクター紹介で「基本目の前しか見てないので感情と行動が直結しており、あほの子っぽい。」と言われており、以下見ていくように直情的でアホ(単純、浅慮)という風なキャラクター性がまず提示されていく。
そうした行動に加えて「なのだ」口調もキャラクター性の提示に寄与しているだろう。
語尾に使う場合は、何に対しても断定的に語るところから自信家のキャラ、または間違っていても断定してしまう幼さ、自惚れや愚かさをイメージさせるため、年少のキャラやアホの子に多い。
(「ピクシブ百科事典 なのだ」より。魚拓)
ピクシブ百科事典は一般ユーザーにより編集されているものだが、このイメージは実際フラットルテの言動による印象と合致している。つまりそのキャラクター性を強調するものとして、適切に語尾が活用されていると言える。
第10話以前の登場
以下主要な登場回を見ていくが、大切なのは視聴者が陽にこう考えていなくとも、何となくそうした心理作用を経て最終的な感想を得ているだろうということだ。
第4話
フラットルテは第4話にてまずドラゴンの姿で登場、主人公アズサ達の参加する結婚式を荒らした後に制圧され、人の姿を現す。(こうした変身は強い印象を生み出す古典的な手法だが、同じドラゴンのライカなど本作では多くのキャラが変身能力を見せるため特別な演出という程のものではないだろう。)
- 賠償金に対して「こんなにお金取るのか!?」
- 嫌がらせが出来ないと「生き甲斐がなくなるのだ!」
- 不戦条約を結び、守らなかったら……と脅され「こんなことするんじゃなかったのだ」
こうした言動を通じてこの場面では「目の前しか見てない」という性格が描かれている。
次の二次会の場面では決まりが悪そうにしながらも結婚を祝福するフラットルテが登場するが、ここではツンデレ的なギャップによキャラクター演出が働いているだろう。
- 「幸せになるのだぞ」「今回は私の負けだ、負けた以上は素直に祝福する」
この2場面により、アホだが素直という基本的なキャラクター性が提示されていると言える。
第7話
魔王ペコラによる式典で久し振りに登場したフラットルテは、ドラゴンの和平に関する褒章授与の場でアズサに角を触らせる流れになるが、これは彼女の一族(ブルードラゴン)の仕来りで絶対服従を意味する行為だった。人が変わったようにアズサに付き従うフラットルテは「それがブルードラゴンの矜持ですので」と言うが、アズサは「自由に生きなさい」と命ずるのだった。
- アズサ「この子、ずっとブルードラゴンのリーダーとして気を張ってて、弱みを見せたり甘えたりできなかったんだね」
- 「フラットルテは御主人様に尽くす、自由で従順なドラゴンなのだ!」
悔しそうに服従させられる場面は第4話でのキャラクター性とよく一致しているが、その後の従者モードでは印象が大きく変わっており、これもギャップのによるキャラ演出と言える。ギャップは提示するだけでも意外性や落差による印象を与えられるが、その解決を行うことでより優れたキャラ演出へ繋がるものだと思う。 つまりここで言えば、嫌がらせをしていたアホが急に落ち着き払った従者になる訳だが、そうした言動の謎は、一族のリーダーとしての自負という内面を知ることで解決されるのである。
第8話
何かと服を脱いだり盗み喰いをしたりで、シンプルにアホという感じのキャラクター性を改めて描いている。
第10話の分析
村に来たミュージシャン(中世風に吟遊詩人と呼ばれている)のスキファノイア(本名クク)が演奏中に倒れ、それをアズサが家に保護するところから話が始まる。
ここでフラットルテは「私は吟遊詩人が好きなので、1000組以上は知ってるのだ」と豪語する程の通であることを明かし、売れていない様子のスキファノイアについても音楽性や動員などの詳しい知識を見せる。 やや意外な趣味だが、悩むククに違う音楽性を提案したり「大体技術で勝負も何も、お前は下手なのだ!」といった物言いから、これまでの「なのだ」口調からの偉そうな印象に結び付けて、評論家気取りのようなものと仮に解決ができる。
だがククの「素人は黙っててください」に対し、フラットルテは不意にギター(リュートと呼ばれている)を借りて自ら見事な弾き語りを披露して見せる。これもまたギャップの提示と言えるだろう。ここからフラットルテは単に評論家気取りをやりたくて音楽に触れている訳ではなく、もっと深い情熱を持っていることが明らかになっていく。
- 「お前ははっきり言って、音楽の才能は無い!」「しかし世の中は才能の順に成功するものではない。だからお前が成功することだってあるかもしれないのだ」「まずは戦うのだ! そしてこれからも戦い続けていくのだ!」
- 「大丈夫なのだ。元々お前は同じことを続ける忍耐力はあった。ただ努力の仕方が悪かっただけなのだ。そこを修正した以上、いい演奏ができるに決まってるのだ」
- 「やれることはやったのだ。後はお前の歌をオーディエンスに届けるだけなのだ!」
ストレートだが熱意のある言葉を通じて、フラットルテの普段のアホっぽさもその情熱が故なのだろうと解決される。そしてククは大舞台での成功を収めるが、フラットルテはその姿に涙し、打ち上げでも真剣な顔を見せる。今までの温度感からするとここは満足そうにしていても良さそうな場面で、またやや意外な一面と言えるかもしれない。
そしてフラットルテはまたギターを取り、ククに最後の熱烈なエールを送る。それもステージで喝采を浴びたククの音楽ではなく、スキファノイアの音楽を演奏して。
- 「お前はスキファノイアとして、気が遠くなるくらい歌ってきたのだ」「お前が正しいと信じてやってきたのだから、戻りたくなったら戻ればいいのだ!」「絶対に永久封印なんて馬鹿げたことを考えるんじゃないぞ」
- 「このフラットルテだって、間違って間違って間違いまくって……今ここで生きているのだ」
- 「正解なんてないけど、立ち止まらない限り完全な失敗もないのだ」「だから、好きなように歌え!」「それがお前の人生なのだ」
これは今までの売れるための活動を支援するものとは異なる、ククの人生と音楽全てを肯定するメッセージだ。フラットルテはここでククへ、一人の不器用なミュージシャンへの深い共感と愛を示している。 スキファノイアとしての音楽は確かに売れない。売れないがしかし、フラットルテはそれを何年もの間愛情をもって見つめ続けてきたのだ。そしてそんな迷走はフラットルテにも大いに身に覚えがある。嫌がらせの件だけでなく「シンプルにアホ」と言ってしまった第8話、ここで改めてキャラクター性を確認したからこそ「間違って間違って間違いまくって」に重みがあるのではないだろうか。
またこの作品は、何十年も修行したのに! といった風に長い積み重ねをあっさり否定される展開が多いが、メタ的に言ってこのククの一件は最もそこのフォローを上手くやっている。間違っても良い、挑み続ければ良いとフラットルテは高らかに宣言するのである。
キャラクター演出の整理
キャラクター演出というものは中心的に語られることが少なく、まず良いストーリーがあり、それによってキャラクターも印象的になると思われている様相がある。
ある登場人物が自分の過去に向き合ってトラウマを克服するだとか、そういう一般向けの小説や映画でも頻出する劇作術・プロットは、その人物に注目すると時間軸に沿って人物像が徐々に深められていく点で、極めてパーソナリティ的と言えるだろう。
一方ここでは、ギャップの提示と解決というよりキャラクター的な登場人物の立ち上がりを見た。 ギャップというのは我々がキャラクターに関する記号体系(様々な言動と内面の結び付き、上述の語尾など)を理解しているからこそ、相反する示唆によって「本当はどういう内面なのか」と考えさせられるものだ。「考えさせられる」というのが言い過ぎならば、「気にならせる」と言っても良い。 ギャップのある言動が実は内面における一つの心理から発生していた、と解決することで、そのキャラクターのことが分かったという感覚を得ることができるのである。
フラットルテについては、このギャップによる演出を巧みに積み重ねていると言える。
- アホだけど素直(第4話)
- (アホだけど)責任感がある(第7話)
- 偉そうだけど情熱がある(第10話)
- 偉そうでアホだけど愛がある(第10話)
一見相反するような表層を見せつつそれらを内面的特徴に統合することで、我々のキャラクター理解は深化を重ねていく。 これは「再認」という形式からは離れるものだが、キャラクター性による類型的理解を基盤にしている点で、やはりキャラクター体験に分類すべきではないだろうか。
メディア的な力
第10話のギャップの提示をより効果的にしているのが、フラットルテの演奏場面が持っている巌然とした説得力だろう。 実際に弾き語りをすることで、どう言葉を尽くすよりも直接にフラットルテの音楽に費やした熱意と時間を感じられる。これは普段我々の「リアリティ」と呼ぶものかもしれないが、別にギター演奏や歌唱について知識があるから「実際の演奏のように」見える、というものではない。我々の中のイメージや見たいと思っているものをより効果的に演出したとき、「リアリティがある」と思わせる力のある描写となるのだろう。感覚に直接訴える説得力(伊藤剛が「現前性」と呼んだもの)の源、それをここでは「メディア的な力」と呼んでおく。
「メディア的な力」は有無を言わさずそのキャラや作品世界が「実在している」という感覚を与える。そして実在しているのなら、たとえ何の説明もなく結果だけが描かれたとしても「何らかの考えがあった筈だ」「何らかの原因・機構がある筈だ」と人は考える。いわゆる「リアリティ」を追い求める意義はそこにある。
この力が分けても顕著なのは『ガールズ&パンツァー』だろう。この作品では試合の山場だと選手達の台詞が聞こえない場面も多々あるのだが、それでも圧巻の試合描写により「ここで鬼気迫る判断や連携が行われている筈だ」と我々は信ずる。(藤津も参照)
またここで扱った第10話のように、特に音楽を主題とした作品でなくとも「ライブ回」とか呼ばれるエピソードが入ることは間々あるが、(ライブを成功させるという分かりやすい物語性があることとは別に)演奏場面では「メディア的な力」を発揮しやすいという要因もあるだろう。とは言え単純にやればいいというものではなく、ここで言えばフラットルテが手慣れた様子でギターをチューニングするカットから既にその力の片鱗が漂っているのであり、音楽を浮いた要素にしない為には結局全体的なクオリティが求められるように思う。
跋
かつてネットのどこかで「萌えとはギャップである」という強烈なテーゼを見掛けた記憶があるのだが、実際ギャップはオタク的なコンテンツにおける最も基本的なキャラクター演出法となっているし、キャラクターの記号性を上手く利用したものでもある。ただそれが普及し切った現在においては、ギャップの解決までを描くことによってこそキャラクターに固有な魅力が宿る。テンプレ的なツンデレを描くならば、何故その二面性が成立しているのかを内面に訴えて説明しなければならないのだ。
また「メディア的な力」によって、そういうプロットからの演出を超越する説得力がキャラクターに宿りうることも見た。 2011年のアニメで『BLOOD-C』という作品があって、これはあまり良い意味で話題になった作品ではないのだが、劇場版『BLOOD-C The Last Dark』は何故か圧倒的なクオリティの映像になっていた。結末は正直何がしたいのか今でもよく分からないのだが、それでもこの作品のキャラクターには何か意志を感じずにはいられない。これも「メディア的な力」なのだろうと私は思う。
とは言えこの力はキャラクターを構築する人間(ライター)からすると制御できない領域であろうし、上に述べたプロットからの手法の方が技術としては役立ちそうにも見える。
文献
- 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』星海社、2014年、p.113(底本はNTT出版、2005年)
- 藤津亮太『戦車も恐竜も見たことないのに「リアル!」と思わせるワザ 『ガールズ&パンツァー』と『ジュラシック・パーク』』BANGER!!!、2019/07/06