跳慮跋考

興味も思考も行先不明

『動物化するポストモダン』における諸概念

社会学的な話はここで追究しているキャラクター論の範疇から外れるが、東浩紀動物化するポストモダン』には2021年現在から見ても有用な概念がいくつか提示されており、多くの議論がその枠組みに従っている。この記事では改めてそれらを整理し、議論の文脈が誰にとっても明らかになる事を期する。

以下引用は断らない限り東浩紀動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(講談社、2001)に拠っている。

目次

ポストモダン

まずこの「ポストモダン」という概念だが、大まかな流れとしてはフランスにおけるマルクス主義的な革命思想が五月革命(フランス現地では「68年5月」)の失敗から凋落し、やがてリオタールが『ポスト・モダンの条件』(1979年)で近代的「大きな物語」の終わりを宣言した時にそれは時代の象徴となった。物質的生活(いわゆる「下部構造」)の変容と社会革命の繰り返しにより共産主義社会へ「到達」する、というマルクス主義唯物史観は正に近代を覆う「大きな物語」の一つだった。(マルクス本人は単に一つのモデルとして提出したのかも知れないが。)「ポストモダン」は建築分野から使われ始めた言葉だった様だが、リオタールはそれを現代思想のキーワードへと祭り上げたのである。

ただこうした流行り廃りとは別の次元で、「ポスト構造主義」を中心とするより具体的な「ポストモダン思想」はデリダがレヴィ゠ストロースを批判した1967年から始まっていた。

いずれにせよポストモダンとはこういうフランス現代思想(フレンチ・セオリー)の文脈から発しており、その外に適用するならば、リオタールの定義に拠るとしても「どんな大きな物語が支配していたか」「それはいつ終わったのか」を考える必要があるだろう。

また「世界大戦を経て人間理性への信用が失墜した」結果ポストモダン思想が生まれた、といった物語が唱えられる事もあるが、相対主義的な立場は19世紀のニーチェがすでに打ち出しているもので、妥当な解釈であるかは疑わしい。大戦後にはサルトル実存主義を説き、レヴィ゠ストロースが「野生の思考」を見出し、そしてようやくデリダが登場するのである。

流行語としての「ポストモダン」は結局「ソーカル事件」によって破滅を迎えるが(レヴィ゠ストロースの夢見た数学の様に厳密な人文科学がこうして無意味な「数学・物理学風の虚飾」に落ちぶれてしまったのは何とも物悲しい)、デリダドゥルーズガタリラカン等々「ポストモダン思想」の旗手だとかソーカルからボロクソに指弾された思想家だとかは今でも参照され続けている。たとえ往時の華々しさは失ったとしても今の時代は「ポストモダン」であり、これらの面々の思想自体は有効性を保っていると言えるのかも知れない。 (西洋思想史の文脈を離れた有効性については常に警戒する必要があると私は思うが。例えば日本人が西洋人程に絶対的な二項対立で世界で眺めた時代が果たしてあっただろうか?)

ついでに言うと解離(解離性障害)は本来ストレスにより生じる心的な機能不全を言うもので(山下 2010 p.40)、言葉から想像される「バラバラ」なイメージがあるとは言い難い。「解離的」(p.123)という東の語法にも「ポストモダン」の悪癖が覗いている。

シミュラークル

シミュラークル」という語は何人かの思想家が独特の意味合いで用いている。ボードリヤールの場合は消費社会を論じるに当たり、物が氾濫しメディアが発展する中で商品を初めとするあらゆる物事が記号としての側面を強め、むしろ現実世界を規定してしまう様な存在になっているとして、そうした実体無き記号をシミュラークルと呼んだ様だ。

この分かりやすい例は、一つにはSNSのフォロワー数が挙げられる。本来的にはそれは現実に存在するフォローした人間の数を指す記号だったものが、人気、名誉、権威、……を指す記号として現実と遊離し始め、偽フォロワーが売買されるに到っては現実の人間とは何の関係も無い数字(正に我々が日常で言う意味での「記号」)と成り果てる。現実の対象を失った記号、即ちシミュラークルはただ他の記号との関係によってしか意味を持たない。(構造主義者はこの関係を「差異」と言い、差異を作り出しているネットワークを「構造」と呼ぶ。)フォロワー1万という数字はただ1000や2000よりも凄いという点でしか意味がなく、その内の何%が熱心な賛同者なのかとか、そういう現実の話には目もくれない。(あるいはそれすらもいいね数とかの記号に回収されてしまう。)こうした書き方はかなり極端だが、つまりシミュラークルとは万物のそうした中身の無い記号として消費される様を言っている。

ボードリヤール達はWWWの影も形も無い頃から、各種メディアが発達する中で記号の奔流によって現実が見失われていく事に早くも気づいていた。『湾岸戦争は起こらなかった』という一見奇妙な主張もそうした問題意識に基づくものなのだろう。

さて東は二次創作をシミュラークルだと言うところから始めているが、これはオタクの現場からすると疑わしい主張だ。少なくとも「原作もパロディもともに等価値で消費するオタク」(p.41)がそう存在するとは思われない。確かに「なろう系」等は実際シミュラークル的だし、キャラクターについてもどこかで見たデザインでない方が珍しいとさえ言える。(そこにこそキャラクターへの「読み」の基盤となる記号体系があるというのはこれまで「キャラクター論」で述べてきた通りだ。)しかし二次創作というのは多かれ少なかれその作品に魅入られた人間がするものであり、二次創作を求める人間もまた同様だろう。原作の「供給」でしか得られない体験がある、求めても決して自らの手では再現できないそれを、どうにか充たそうとした先が二次創作だと私は思っている。実体、というかオリジナルが明確に存在する二次創作をシミュラークルとするのは無理がある。

この不可解な主張は、読み進めていくとその実態が見えてくる。「オタク系文化では、原作も二次創作もともにシミュラークルと見なされ、その両者のあいだに原理的な優劣は無い。むしろ作品の核は設定のデータベースにある。」(p.91)とある様に東はオタクがデータベース(その作品における記号の組み合わせ情報)をこそ「原作」だと認識していると考えている。しかしオタクが作家性に無関心だというのは、明らかに実態を反映していない。二次創作をするオタク達が「似ない」と口癖の様に言っているのを見れば、それはデータベースではなく特定の表現を見ていると分かるだろう。

ただ一方で、二次創作が常に原作の表層を模倣しているかというとそうでもなく、「東方」など特に「ZUN絵」と言って原作の方が有標になってしまっている。この場合は確かにオタクからデータベース的な受け取られ方をしているが、それでも原作が特権的であるのは確かだ。「作家性の神話」なるものは消失したというよりも、表層・深層の構築の巧みさへと分解されつつ以前として持続している様に見える。

二次創作を軸に論を進めているのはこの様に難があるが、綾波レイ系統のキャラの増殖からキャラクターのシミュラークル性を指摘している部分(p.73-75)がここでのキャラクター論にとっても有用な見解なのはに述べた通りであり、そこから次の「データベース」へと繋がる。

データベース

東は大塚英志の「物語消費論」を糸口に消費モデルを考えている。物語消費とは個々の作品ではなくその背後にある壮大な世界観へと向かう消費を指しており、大塚はビックリマンチョコガンダムを代表例としている。これはいわゆる「考察」による楽しみ方と言える。大塚は社会の喪失した「大きな物語」を代替する為に人々が「自らが情報の断片をつなぎ合わせてわかり易いストーリーと世界像を捏造して自己増殖していく欲望」(大塚 2012 p.19)に駆られていると観察し、強く警告を発した。ボードリヤールのハイパーリアリティ的な虚構を自ら積極的に作り出し、また巻き込まれていく人間の姿を説いたと言える。

東はこれを継承しつつ、既に大きな物語を捏造する必要すらない世代の登場を指摘し、消費されているのは「オタク系文化全体のデータベース」(p.77)だとした。「データベース」という言葉は「ユーザーの側の読み込みによっていくらでも異なった表情を現す」(p.53)という、大塚の指摘した積極性と通じるところを含意したものと思われるが、上述の様に東はそれを二次創作から見出している為噛み合いが悪い。現在「データベース消費」という言葉自体があまり一般化してはいないのはそうした事情ではないだろうか。

しかし東が「物語やメッセージなどほとんど関係なしに」(p.58)作品を、いやキャラクターを「キャラ萌え」で消費していく様子を記述したのは、オタク的な記号体系に纏わるここまでの「キャラクター論」の源流であり、今一度注意するに足るものだろう。

大きな物語・小さな物語

これもリオタールによる言葉で、近代社会に存在した支配的な世界観、「この世の進むべき方向」への共通認識とでも言うべきものを指す。 リオタールの挙げる例で分かりやすいのは「富の発展」だろう。生産効率が上がって生活が豊かになるからこの研究をする意味がある、と言う時この「意味がある」とは、「富の発展」を良しとする大きな物語によって正当化される、と言っているのである。

上述のマルクス主義はリオタールの時代、共産主義社会を到達点と考える「大きな物語」の代表格であった。ソ連が教科書の上で崩壊し、共産党が白い眼を向けられている今日の我々には想像し難いが、マルクス主義を信奉し唯物史観を科学的事実とした人間で世界が溢れていたらしいのだ。「大きな物語」に自ら参与して「進むべき方向」へ歩を進める事で、人間は「生きる意味」を全うしていると信じられた。それは皆が「大きな物語」を信じているからこそだ。そういう一体感の中で、迷いの無い時代というのが近代(モダン)だった。

東は現実社会の「大きな物語」が失われていく中で、その代替を求める行動が「物語消費」だと位置づけたが、90年代になると「大きな物語」無き世界で育った世代がただデータベース(「大きな非物語」)上の情報だけを消費するとした。

現実社会が「自己犠牲の称揚」を「大きな物語」として持っていれば、フィクションもまた自己犠牲を美しく描く事で大きな感動を引き起こせる。「無限の(経済)成長により無限に豊かになる事」を「大きな物語」として持っていれば、フィクションもまた果てしなく強くなる主人公を描く事で熱狂を引き起こせる。リオタールの意味からは離れるが、フィクションにおけるテーマの「時代性」とはつまりこの「大きな物語」の反映ではないか。

さて「大きな物語」が饒舌に語られる一方で、「小さな物語」の記述は限定的である。しかし引用部の大塚が「小さな物語」を単に個々の作品(表層)の意味でしか使っていないのとは違い、東は第2章8節で独特の意味合いを示唆している。

ノベルゲームの消費者はこのように、作品の表層(ドラマ)と深層(システム)に対して、まったく異なる二種類の志向をもつことで特徴づけられる。前者では彼らは、萌え要素の組み合わせによって実現される、効率のよい感情的な満足を望んでいる。(p.122)

近代の小説においては、主人公の小さな物語は、必ずその背後の大きな物語によって意味づけられていた。(p.124)

つまり「大きな物語」が世界の正義に関する物語であるとすれば、「小さな物語」とは個人の感情に関する物語なのである。

東は「小さな物語」から「大きな物語」への回路が断たれた事でもう「大きな共感など存在しえない」(p.139)として、人間性の無意味化、つまりは「社会のために何かしよう」という心理の消失を見ている。

しかし私はむしろ「小さな物語」にこそ、ポストモダン社会における正義、いや善の在り方を導くものではないかと考える。これは「正義と善:マギアレコード第1部に寄せて」で書いた点だが、より文脈を一般化して言い直せば、西洋倫理学の「正義」とはロゴス中心主義に縛られて無限に多様化する(いや「大きな物語」を失ってあらゆる捨象が無効になった)世界への対応力を失っているのではないか、という事だ。例えば「Xをすれば大勢の人を助けられる……でも目の前のこの人を犠牲になんてできない!」という物語のクライマックスはよくあるものだが、ここでは主人公は要するに功利主義(「より多く人を幸せにすべし」といった考え)の正義を破棄して今現在の共感を取っている。こうした物語が氾濫する程に、我々は正義より「善」に、小さな共感にこそ生きている。そしてそれは、概念化された「社会」ではなくただ個々人が生きているポストモダンの世界において、むしろ最も適合した倫理観の一つなのではないか。

(補足すれば、「善」とは文字通りの「善い事」であり、西洋ではプラトン以降「これこそが善である」という「絶対にプラスなもの」「善そのもの」が存在するという雰囲気があった。例えば功利主義では「最大多数の最大幸福」こそがそれであるとして、「最大多数の最大幸福を目指すべし」という形で「正義」を説いた。正義とは善の正体を明らかにした結果導かれる「なすべき事」だというのが私の理解だ。)

こうした希望を持って改めて文章に当たると、東の論調は何とも「大きな物語」主義的、つまり近代的である。

東はそもそも「大きな物語」無き作品に「勝手に感情移入し、それぞれ都合のよい物語を読み込む」(p.61)ような、オタクの積極的な「読み」を繰り返し指摘しており、だからこそ「データベース」と名附けた筈だ。それなのに人間性(倫理)を語る段になると、コジェーヴの欲求(欠乏—満足の形式の動物的な志向性)と欲望(「愛されたい」の様に他者によってしか満たされない、他者の欲望を欲望する形式の志向性)を引いてその消費行動に「動物的」との診断を下し、社交性の喪失を危ぶんでいる。

この捻れは結論部分(p.138-141)において端的に現れており、東は「小さな物語」を小さな「共感」と位置附けつつも、シミュラークルの水準では「他者なしに」物語を消費しているとした。つまり倫理は「大きな物語」によってしか得られない、という近代的信念が故に「小さな物語」の地位を貶めてしまっているのである。

思わぬ長文になってしまったが、最も注目したかったのは「大きな物語」そして「小さな物語」という概念の有用性である。これによれば、例えば「セカイ系」は現実感を失いつつある「大きな物語」を「きみ」を媒介に「小さな物語」へと繋ぎ留める構造、と言えるかもしれない。また「日常系」とは「小さな物語」の「大きな物語」に対する優越である。(恐らく「大きな物語」の不在、とまで言ってしまうと『まちカドまぞく』など扱えなくなるが、私はやはりこの作品も日常系であろうと思う。)

また出版当時の雰囲気について私は明るくない為、二次創作や「小さな物語」についての指摘は正当な批判とは言えないかもしれない。だがそれでも、2021年の観点からコメントを加える事は幾らか意義があるだろうと信じる。 (……ネット上で見る批難は大体ちゃんと読んでいない様だし。たとえ嫌いな相手の話であろうと一旦冷静になってよく吟味する、そういう姿勢が「小さな物語」の時代にある我々の責務ではないだろうか?)

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