跳慮跋考

興味も思考も行先不明

『すずめの戸締まり』絆によらない救済、子になれなかったダイジン

幸せな明日を願うけど 底なしの孤独をどうしよう*1

死ぬのは怖くない、「生きるか死ぬかなんてただの運」と言い放つ鈴芽の生き様は『天気の子』から更に異なる輝きを見せたが、一方で「ダイジンが可哀相」という素朴な感想はエコロジー的な思想の流れとの齟齬を示唆してもいる。

救済の形式

『天気の子』は社会への包摂を徹底的に拒否する物語だった。それが周縁性へ深く寄り添うからこその主題であったのは「周縁性とエコロジー:『天気の子』の思想と内面」に述べた通りだが、では何によって救われるのかと言えば、即ちヒロインとの絆である。

新海誠作品の系譜において「ヒロインとの絆」はセカイ系の「引き裂かれてしまうリアリティ」*2により物質世界では断絶するものの、精神世界ではそれを超えてヒロインと「響きあう」事で主人公は救われる*3。 これはある種「画餅充飢」とも言うべきオタク*4の強がりを理想化した主題だが、作品がより大衆向けに作られるに従ってか物質的断絶は永続せず、ボーイミーツガールとして正当に絆が獲得される様になった。

『天気の子』もやはりヒロインと絆を結び、「大丈夫だ」と救われて物語が終わる訳だが、この作品では際立って主人公達の周縁性が色濃く描かれている。そしてその周縁性がボーイミーツガール的な「絆による救済」と衝突する事になる。 何故ならば絆の不在、「孤独」もまた現代において周縁性の重大な一側面だからだ。3.11当時に「絆」が大々的に持ち上げられたのも、そうした孤独への恐怖の裏返しにも思われる。

以上の文脈から見ると『すずめの戸締まり』は、「絆による救済」の形式を脱している点で今までの作品とは決定的に異なっている。

運命の赤い糸のような物語は、今の自分には当時ほどの強度では作ることができません。*5

これは一方で歳を取ったからこそ鈴芽と環の関係を描ける様になった、という話の流れだが、草太との関係にしろ環との関係にしろ最終的に鈴芽を救うものとしては描かれない。 鈴芽は過去の自分に語り掛ける、「あなたはこれからも誰かを大好きになるし、あなたを大好きになってくれる誰かとも、たくさん出会う」。これは作品中の鈴芽の経験を言っていると考えて良いだろう。「たくさん出会う」のだからこれは草太との恋愛感情には限らず、環も、各地で出会った人々をも指している筈だ。特定の誰かではなくて、色々な人々との出会いがある未来の希望。それが「光の中で大人になっていく」事であり、「鈴芽の明日」という事なのだ。未来の希望が自分自身によって象徴されるという事は、「絆による救済」とは異なり極めて自立的である。

これはプロットの面からも指摘できる。実家に帰る間近で鈴芽は芹澤と別れ、後ろ扉に入って環と別れ、過去の自分に駆け寄るとき草太とも別れる。鈴芽は人々と絆を取り結びながらも他者によってではなく、あくまでも自分によって自分を救うのだ。また新海誠自身も「鈴芽が自分を救う話」だという事を肯定して以下の様に述べている。

他者に救ってもらう物語となると、まず救ってくれる他人と出会わなければいけないわけです。でも本当に自分を救ってくれるような他者が存在するかどうか、わかりませんよね。誰もが『君の名は。』の瀧に出会えるわけでも、『天気の子』の陽菜に出会えるわけでもない。でも、誰でも少なくとも自分自身には出会えるじゃないですか。*6

新海誠は各種インタビュー等でジェンダー論的な話題に触れてはいない(「女性の物語」*7とは明確に述べているが)ものの、女性主人公で物語を書くに当たってのこうした救済の変貌からは、ジェンダーに関わる社会の雰囲気というものを丁寧に汲んでいる事が窺われる。 『天気の子』において描かれた社会と和せざる帆高達の生き様はある種時代性(または「文学性」)の極限とすら思えたのだが、更にそこへの批判性をも含む形で『すずめの戸締まり』を作り上げたのは実に驚くべき事ではないだろうか。

エコロジーと自己犠牲

一方「周縁性とエコロジー:『天気の子』の思想と内面)」ではエコロジーという観点にも触れたが、『天気の子』の天気に当たる自然を象徴するものは『すずめの戸締まり』においてはミミズになっている。ただ今回は単純にミミズに干渉する訳ではなく、短期的には「産土」(土地の神)に祝詞を以て請願し「戸締まり」する事で、長期的には要石を霊的な要衝に配置する事で地上に這い出るのを防いでいる。

また祝詞には「ヒミズの神」も現れる。ヒミズはパンフレットや小説版に「日不見」と表記されており、ミミズを主食の一つとするモグラ近縁の動物のヒミズを指すと解釈される事が多い。ただ小説版では東京の要石の場所(つまりミミズが出てそれを鎮めた場所)を探す場面で「日不見ノ神顕ル」という記述が言及されており*8、この文脈では「日不見ノ神」をミミズと解釈するのが妥当である。こうした指摘もあり、どうも「土竜」は中国でミミズを指していたのが、日本に誤ってモグラと伝わったのだという*9前回指摘した自然中心主義的な思想も踏まえるとミミズを敵対的に調伏するとは考えにくく、並びから言っても祝詞の「ヒミズの神」は「産土」の別称であり、単に地中生物(日不見、日を見ない生物)としてミミズを指す語と解釈した方が良いものと思われる。(また儀式的な機能としては、地上に出て来ようとするミミズを飽く迄も地中に留めようとする言語的な呪術でもあるのかもしれない。)

それよりも問題は要石のダイジンである。『天気の子』と違って社会の中に留まる本作では地震を収めなければならず、鈴芽は中盤以降その為に自らが要石となる事を覚悟していた。結局はダイジンが要石に戻る事でその自己犠牲は否定されるが、その時ダイジンは「すずめの子にはなれなかった」と嘆くのである。これは最初に九州(宮崎)の家で鈴芽から「うちの子になる?」と言われた事を受けたもので、更にこの台詞は環の「うちの子になりんさい」と共鳴している。つまりダイジンは「子になれなかった鈴芽」なのであり、成功した鈴芽の代わりに失敗したダイジンが犠牲となって平穏を実現したのだ。

ただダイジンの立場は鈴芽と同じではない。草太の祖父・羊朗の言葉からして元は人間だった可能性もあるが、「気まぐれは神の本質だからな」等と基本的に神として扱われているし、キャラクター設定でも「ダイジン=大神の意味も込められているとか」*10と述べられている。つまり「自然と人間」の関係においてダイジンは自然の側に立っていると考えられる。

人間の側であれば単に可哀相という話なのだが、これが自然の側に置かれているのが問題で、『天気の子』と繋がる自然中心主義との衝突が生じているのである。前作で気まぐれな自然の中に「ただ仮住まいさせて頂いている」等と述べられた思想は今回も持続しており、「いま一年、いま一日、いまもう一時だけでも、私たちは永らえたい」という懸命な祈りの言葉にはっきり表れている。作中の歴史でも関東大震災東日本大震災が起きているのだから、鈴芽達の「戸締まり」は偶然成功しただけのもので、とても後ろ戸からの災害が人の手で制御できているとは言えないだろう。

そんな中でダイジンははっきりと鈴芽に好意を示し、自ら要石になろうとする鈴芽を助ける為、もう一度要石になる決断をするのである。これが人間への慈悲としてだとか、(神であれ)成長して要石としての責務を大切に思ったのだとか、そういう事であれば「自然と人間」の関係が保たれているのだが、「すずめの子にはなれなかった」というネガティブな動機がどうしてもこの手の解釈を否定してしまう。

この台詞は、物語の「実は母ではなく未来の自分だった」という仕掛けを考えると、鈴芽が環の様な「母」にはなれなかったという事を暗示している様にも思える。「今回は恋愛ではない映画にしたい」*11という企図の反映と解釈する事も可能だが、何れにしろ真意を推し測るのは難しい。*12

何故ダイジンに関してだけ人間中心主義的な結末になってしまったのか? これは結局「うちの子になる?」という伏線めいた台詞が、様々な要素を詰め込まれた本作の噛み合わない1ピースとなってしまったのではないかと思いたくなるが、果たしてどう解釈すべきか。

本文で触れられなかったが、構造として「行きて帰りし物語*13の様でありながら実は鈴芽の心はずっと常世に囚われていて、最後の「行ってきます」で漸く現世を生きる様になる点だとか、そういう心理が序盤では死ぬのが「怖くない」という表層として、最後には深層のトラウマとしてきちんと表現されている点だとか、キャラクター論的にもやはり面白い物語である。

ダイジンの事を長々と書いたが、『天気の子』をある面で批判的に発展させた先に『すずめの戸締まり』があるのと同様、次作もまたこうした疑問に答えるものにもなっているのかもしれない。そう期待させるだけの内容を本作が湛えている事は間違いないだろう。

*1:きゅうくらりん / いよわ feat.可不(Kyu-kurarin / Iyowa feat.Kafu)

*2:笠井潔. 特集, ポストライトノベルの時代へ: 社会領域の消失と「セカイ」の構造. 小説トリッパー. 2005, 春季, p. 42. ここでも引いている。

*3:榎本正樹. 新海誠の世界 時空を超えて響きあう魂のゆくえ. honto版, KADOKAWA, 2021.

*4:近年は「オタク」が大衆化するに従ってこうしたニュアンスは薄れ、代わりに「陰キャ」から「弱者男性」まで様々な差別語が発生している。

*5:「すずめの戸締まり」製作委員会. 新海誠本. 2022, p. 13. (劇場特典)

*6:「すずめの戸締まり」製作委員会. すずめの戸締まり. 東宝映像事業部, 2022, p. 17. (パンフレット)

*7:パンフレット p. 17

*8:新海誠. 小説 すずめの戸締まり. honto版, KADOKAWA, 2022, (角川文庫), 48.0 %.

*9:土龍(どりゅう)とは? 意味や使い方 - コトバンク. snapshot

*10:パンフレット p. 24

*11:パンフレット p. 15

*12:男性の場合だが、『天元突破グレンラガン』が英雄の物語である為にニアを救えなかった事を思い出す。数々のアニメの中でも指折りに納得のいかない結末の一つである。参考: グレンラガンとプロメアの違い、12年を経ての「強い男」の物語|はっさか|note

*13:新海誠作品を支える神話的構造――「ほしのこえ」から「すずめの戸締まり」まで(前編):よくばり映画鑑賞術 - ひとシネマ. snapshot1, snapshot2