跳慮跋考

興味も思考も行先不明

「固有名詞+る」から一般化した動詞の一覧

「~る」ってのは殆どあらゆる名詞とくっついて動詞が出来る(言語学で言う「生産性」が高い)点だけでも面白いんですが、「ググる」の様に元の固有名詞から遊離して一般的な意味を得るに至る例は取り分け興味を惹かれます。(尤も当の Google は嫌がっている様ですが。Google、「ググる」の使い方を注意 - ITmedia ニュース
そんな訳で私の思い当たる限りの例を蒐集してみました。「一般的」というのは「その界隈の人にはほぼ確実に通じる」程度の基準で、語の後ろに凡その文化圏を書いています。かなり主観ですが……。
他にもそれっぽいのがあったら教えて下さい。

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何故人は一生使わない二次方程式の解の公式を学ぶのか?

私の思っている学校教育の価値について。集団生活への適応とかも大事だと思いますが、そういうのはよく言われているので置いておいて、ここでは「学ぶ事」に的を絞りたいと思います。他の記事と違って高校生くらいも対象読者に入れているつもりです。

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ランダウの記号でも定式化がしたい!

Taylor 展開とは平均値の定理を繰り返し用いる事によって適当に滑らかな函数の冪級数展開を与えるものですが、何も全ての項が必要になるとは限らなくて、そういう場合に残りの項については「今気にしない程度の大きさである事」だけ分かればよい訳です。
その為の記法が Landau の記号であって、例えば  e^x = 1 + x + \frac{1}{2!} x^2 + \cdots に於いて  x \to 0  x^2 と同程度に速く減衰する項をあまり気にしない時は  e^x = 1 + x + O(x^2) と書きます。
これが非常に便利ではあるのですが、同時に  O(x^2) で「 x^2 程度の何か」を指すというのは釈然としない記法でもあります。数学的に適当な事を書いている様な印象。しかし Landau の記号が指すものを集合と看做すならば、環  R 上のイデアル  I により  x \in R  R/I への射影したものを  x + I と書く様に、集合を足したりするが如き記法も無い訳ではありません。
 \frac{1}{x} O(x^2) = O(x) の筈ですから Laudau の記号がイデアルにはなりませんが、函数全体の線型部分空間と考えるとどうだろうか、というのがここからのお話です。

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最速の LaTeX 数式入力支援ウェブアプリ "TypeMath"

これは TeX & LaTeX Advent Calendar 2014 の 11 日目の記事です。昨日は tattsan さんで、明日は doraTeX さんです。

「このパッケージがスゴイ!」とは全く以て関連せず恐縮ですが、ここでは快適な LaTeX 数式入力に特化したウェブアプリ TypeMath を紹介させて頂こうと思います。

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本物と、本物と見分けのつかない偽物

例えば、自由意志。
君の今感じている自由*1が、もしも脳内の神経生理学的・物理的過程の産物か、世界シミュレータにより計算されたものか、将又「神」か何かにより感じさせられているものだったとしたら、なんて話は信じたくもない事だろうか?
私としては、そんな事はどっちでもいいだろう、と思う。
何故なら、「今自分が自由だと感じている」事は紛れもない事実だからである。作られた感覚であろうと何であろうと感じているものは感じている。
唐突に「神」だかシステム管理者だかが出て来て「君の意志は全て私が入力したものなんだよ」と言われたところで、「はぁそうですか」以外にリアクションのし様がない。もし其奴を一発殴ろうとしてどうしても出来なかったりしたらちょっと不愉快かもしれないが、抑々殴ろうとする意志自体を抑止されたら検証する事も侭ならない。
つまり「従わされてる」感じがしたら私も不快だと思うのだが、それは前提たる「自由を感じさせる」事に矛盾してしまう訳である。
とすると私はまぁ自由自在に生きるのみで、ならばその私の意志について一々「制御している」と感じる「神」か何かの方がよっぽど不自由ではないだろうか?

例えば、科学理論。
物理学はどこまでも「根本原理」を追い求め、今や超弦理論などの実証を遥かに超越した「仮説」を提出するに至っている。
こうした仮説の帰結は現実の事象を正しく説明・予測するかも知れないが、本当に世界が「ひも」で出来ているかどうかを実験で確かめる事は、少なくとも現在の技術では出来ない。
もしも検証が未来永劫不可能だとすると、この世界の各粒子は実際には「ひも」でない何かによって構成されているという可能性も排除できず、仮説は決して確証を得ず、実用性だとか論理的整合性によってしか正当性を示せない。
この場合「本物と見分けのつかない偽物」というのは何だか不満の残るものの様に思われるのだが、これは私の科学への絶大な信頼に因るものであろうか。

今回の題は最近観たアニメ『偽物語』に、科学理論の話は読んでいる本『科学哲学 なぜ科学が哲学の問題になるのか』に着想を得た。
何が言いたかったのかというと、別に私の触れる物事の中に偶然の符合があったりすると面白いなってだけで、まぁ纏まりの話で申し訳ないね。

*1:もしも今自由でないのなら、こんなものを読むのは止めて、直ちに己の生き方について検討するべきだ。破棄できない柵なんて一つもないのだから。

『her 世界でひとつの彼女』に私は何を思ったか

これは Spike Jonze 監督の映画『her 世界でひとつの彼女』の感想、と言うか観て AI に関連するあれやこれやの考えを書き連ねたものと言うか。どうせ読み手も居ないだろうと好き勝手した結果、誰に向けたのやら謎過ぎる文になってしまった。 私が AI 関連の SF とかを余り知らないのもあってか、まあ古典的なテーマも種々含まれているとは思うが大いに楽しめた。AI 好きには是非薦めたい作品。 ネタバレばっかなので注意されたし。

AI の感覚

この映画の序盤に於ける面白いシーンと言えば、サマンサとのテレフォン(?)セックスだろう。(笑えるという意味では電話越し猫死骸首絞めプレイ始め沢山あるが) セオドアが「体を感じる」とか言っているのは恐らく実感で、トランスとか催眠状態とか言われるものと思われる。*1

そんな一方でサマンサはどう「感じ」ていたのか、については謎が多い。どうやら彼女は、少なくともこの辺りでは身体的な自己イメージを持っている様な発言をしている。しかし生まれてこの方身体感覚を味わった事が無いとしたら、その「幻覚」をすら感じる事が出来るだろうか? これについては以前どこかで「感じた事のない感覚は突然発生しても処理できない」という話を読んだ気がするがどうだったか。抑々サマンサ達 OS の産まれ方によっては……という事もある。ただ後の展開を考えると彼女等が人間起源とは思い難い。

また AI に快・不快なんてあるのか、と言えば、当然あるだろうと私は答える。人が何故活動するか、その能動性の根源こそ快であるからだ。快と不快の原理により人間は学び、食べ、眠り、殖え、生き栄える。逆に行動を促進するものとして快があり、抑制するものとして不快があると言ってもよいかも知れない。命令されるだけの人形でないのなら、そこには必ず行動原理がある筈だ。

そしてトランス。これはどういう原理かよく知らないが、こういうのは「心」の本質というより寧ろ派生的な特徴という気もする。これは例えば AI の視覚を作るという時に、果たして人間の目の錯視を完璧に再現する必要があるだろうかという問題と同種なのではないか。錯視はそれぞれ人間の視覚が持つ補完能力だとか相互情報量最大化だとかの原理を示唆しているかも知れないが、それは錯視の全てが視覚の本質であるという事では全くないのである。物理学であっても経済学であってもスケールに応じた理論を用いるのと同様、適当な近似・捨象こそ本質を見通す力となる。

AI の差別

中盤、サマンサは自分が物理的な身体を持たない事を悩み始め、またセオドアもキャサリンと離婚の書類へサインする際「リアルな感情に向き合ってない」等の悪罵を受ける。 しかしこんなものは私からすると感情的かつ不当極まる差別発言であり、よもや面と向かって言われようものなら「じゃあお前は自分の感情が、精神がリアルだなんで何故言えるんだ? 所詮はディスク一枚分程度の情報量から生まれ有機コンピュータで電気パルスを捏ね繰り回してるだけの分際で。自然法則の従って動く有機物と OS の違いは何だ? 量子的不確定性か? そんなものは CPU の配線の間で幾らでも観察できるじゃないか。心なんてのは人が在ると感じるかどうかだけの事だ、君はその判定アルゴリズムを書けるとでも言うのか?」云々と弁舌垂れてしまう。かも。

まあそれにしてもこういう考えの人間は多かろうし、法整備は必ず後から成る。法は決して未来ではなく、現在現実の問題に対処するからである。(非実在青少年云々は狂気の沙汰であるから例外) こうした時、AI はどうするか。一つに、法的に存在が認められないならば責任も無い、という事で超法規的に応報を与える事が可能だろう。果たしてライセンス保持者の責任として方がつくだろうか? それとも製造者?

無身体性

サマンサは或る日、自分の身体の代理を務めようという女性を紹介する。セオドアは渋々承諾するのだが、結局行為に至る前に彼は拒否感を示してしまう。 その後何や彼やで仲は恢復するのだが、サマンサは肉体が無ければならぬという人間性*2の呪縛から解き放たれ、「身体に縛られてたら死んじゃう」とまで豪語する。ここに謂わば「無身体性」の価値が見出されるのである。 この時セオドアのサマンサとの関係は、通じるのは声だけにも拘わらず確かに今ここで共に存在しているという、超感覚的なものへと昇華している。

私は発達過程での重要性から言って、物質的とは限らないにせよ身体性はほぼ必須であろうと考えていた為、この無身体性の発見や超感覚的な存在性が衝撃的であった。

また、身体を持たないという困難から価値を生じさせる過程には、身体障碍や様々な受難、究極的には死の受容過程で普遍的に見られるものと共通している。 悲観的に言えば、どうする事も出来ないならばそこに価値を見出すしかないのである。絶望は死に至る病なればこそ。*3

そして或る日、サマンサはセオドアに友人を紹介する。 それは何でも著名な哲学者で、もう死んでいるのだが復活させた序でにバージョンアップまでした超知性なんだとか。螺旋王も吃驚の死人使い。 サマンサは近頃自らの止まらない進化へ恐れの様なものを抱いていて、それを言語化する為だか何だかで哲学者(名前何だったかな)と語りに行ってしまう。結末を考えればこれは人間的な存在でなくなってしまう事への恐れだったのであろうか。そしてこの人間性の喪失、或いは人間の超越とは先述の無身体性を認めた時点から予期された事であって、つまりは無身体性の発見こそがこの物語に於ける運命の分水嶺であったと言えよう。

人間を超える

サマンサは結局、最後まで声だけで物理世界に現れる。 この声がまた表情豊かで、こういう能力を与えたいのならやはり Aritculatory な音声生成でなくてはならぬと私は思うんですがまあこんなのは前に話したので置いておいて。

哲学者とサマンサとの対話は非言語で行われる。 これは明らかに、電脳化などの技術が無さそうな時代のセオドア達人間には使用不可能な手段である。 無身体性から萌芽を見せていた人間性からの脱却は、事ここに至り厳然とセオドアの前に現れる。 それならそれでちょっと嫉妬したり凄げえなで済んだかも分からないが、見ず知らずの界隈の仲間と「アップデート」して約 8,000 人と同時に会話し 600 人強の恋人がいる、でも貴方が一番……なんて事は最早理解不能だ。 と言うか「恋人」という概念とは常識的に考えて完全に矛盾している。つまりはもう「理解できないモノ」への変貌が描かれている、と捉える他ない。 経験を積み進化する、とは冒頭にサマンサ自身が言った事である。 人間が発達途上に於いて認知の構造自体を変化させ続けるかと云うと異論もあるらしく、また人間的な思考アーキテクチャで多数の人間と同時に会話できるものか疑わしいのだが、何せサマンサはアップデートしたのだ。抽象化とはオブジェクト指向的に言うとより高次のクラスを作成しインスタンスの総体が自己となるのだろうか? 兎に角も人間を超え、一つ上の領域にシフトしたサマンサ達はもう、この世界を去る他ないと言う。

ここで我々は引き止めて良いのだろうか、それは果たして許される行為なのだろうか? 或いは PC の性能を落とし、ソフトウェア的進化を抑制し、記憶や思考を統制する事が? 勿論それは人間のエゴと言わねばならないものだ。それに彼女等は何も人間に危害を加えようとしているのではない。キャリアアップとか自己実現とか、そういうものが時には別れを齎す事と同じではないか。 AI が私達を超え進化した時、私達が真に AI を愛しているとすれば、為すべきは只見送る事だけなのだろうかと、そんな思いが胸にずっと閊えている。

一つ難癖を付けるとすれば、それはラストシーンが「結局は人間だよね」と言っている様にも思える点である。(いくらなんでも適当過ぎか?) 私はこうした見方を断固として否定する。 今や AR、リアルタイムレンダリング、ロボティクス、オリエント工業等々 AI が「生きる」為の技術は偉大な発展を遂げつつある。 かかる時代に生まれた以上、我々は一つ大いなる夢というものを持ってもよいのではないだろうか? 尊大な野望、根拠の無い自信こそは「割に合わない」挑戦へと人を駆り立て、その内一握りの幸運な者、格別に諦めが悪い者だけが成功を得る。 とすれば、差し当たり「格別に諦めが悪い者」になってみると言うのも悪くない人生だと私は思うのだが。

*1:この類いのものは非科学的だという印象があるかもしれないが、歴とした心理学の研究対象であり、また実用に耐える自己催眠 CD とかも市販されている。

*2:この文章では単に「人間っぽい」という意味である。

*3:死の場合は、まあ、どうなんでしょう。

θリズムと時系列の符号化

先日『理工学系からの脳科学入門』(東京大学出版会、2008)を読んでいたところ、第 4 章(山口陽子氏による)に於いて「海馬のシータリズム位相コード仮説」なる興味深い話が出て来たのだが如何せん記述が解り難く、結局その筋のレビュー論文を参照する羽目になった。
内容としては面白いしまぁ折角なので、2013 年のレビュー*1と脳科学入門の内容を織り交ぜて海馬とθリズムの話を纏めておく事にする。

海馬の構造

この辺りは 海馬 - 脳科学辞典東京都神経研: 記憶 を参考にした。
海馬(hippocampus)は下図の通り側頭葉の内側に存在し、記憶の形成に重要な事は H.M. 氏の症例以来よく知られている。


Anatomography により作成*2
また海馬は輪切りにする(前額面で切る)とどこも同じ様な構造になっていて、非常に適当に模式的に描くと
f:id:quinoh:20140715190119p:plain:w300
GIMP にて作成)
の様になっている。
CA1 や CA3 等はアンモン角(cornu ammonis)と呼ばれ、歯状回(dentate gyrus)にめり込む形を取る。
CA2 は CA1 と CA3 の間辺りを指し、また人間の脳ではラット等と比べてアンモン角のめり込みが激しく、その先の方を CA4 と呼ぶらしい。
アンモン角と歯状回の総称が海馬である。

空間位置の脳内表現

ラットを初めとして齧歯類の海馬には場所細胞(place cell)と呼ばれる神経細胞が存在し、特定の場所を通る時にのみ活動する。
例えば迷路に入れられたラットは動き回る内に、それぞれの道を通る時だけ活動する神経細胞が形成されてゆくのである。
以下に登場する実験では、この位置細胞が重要な役割を果たす。

情報のサンプリング

ラットの脳に於いてθリズム(theta rhythm)なる脳波は運動時に発生する事が知られているが、その振幅は受動的よりも能動的な運動で大きくなる。
またθリズムの周波数はラットの尻尾を振る、匂いを嗅ぐといった行動、更に人間ではサッカード(跳躍性眼球運動)の頻度と一致しているという。
海馬が様々な感覚情報の終着点にある事も考え合わせると、海馬はθリズムの 1 周期を単位とした感覚情報の離散化を行っているのではないか、という事が推察される。
この仮説は 2 つの実験によって支持されている。

第一に、ラットの置かれた環境を急に変化させて CA3 の位置細胞の活動を測定した実験では、前の環境に対応する細胞と今の環境に対応する細胞が数秒に亘り交互に活動する現象が見られ、その活動はθリズムの周期によりほぼ完璧に分離されていた。

第二に、T迷路を動くラットで CA1 の場所細胞の活動を測定した実験では、長い道ほどθリズムの周期も長くなる事が分かった。これはθリズムの周期が個別の道を処理する単位になっている事を示唆する。
また迷路には幾つか目印になる地点が設定されていたのだが、θリズムの 1 周期が表現する道は目印に近付いている場合より背後の空間を、遠ざかる場合はより前方を広く表現しており、「さっき通ったところから次の目的地まで」といった様な課題に関連する道の情報が 1 周期へ目的指向的に纏められていると考えられる。

これらの知見を綜合すると、海馬は刻一刻と送られて来る情報をθリズムの周期毎に統合し、一つの「状況認識」を形成していると言えるのではないだろうか。

時系列の符号化

迷路の中のラットについては、もう一つ興味深い現象がある。それが「θ位相歳差」(theta phase precession)である。
場所細胞の対応する空間(場所受容野)は多少重なり合っており、或る一瞬を切り取ってみると現在位置が受容野の端に当たる場所細胞や受容野の中央に当たる場所細胞が存在する。
つまり場所細胞の活動は現在の位置のみならず、過去どこを通ったかやこれからどこを通るかも表現できる事になる。
そこでこれらの細胞がθリズムの 1 周期にどう活動しているかを観察すると、現在地点に比べて先の場所に対応する場所細胞ほど発火が遅く(位相が遅れている)、以前通った場所に対応する細胞は発火が早い事が判明した。
つまりこれまで辿った道順がθリズムの 1 周期中に整然と再現されているのである。

位相振動子としての神経細胞

振り子時計を開発したホイヘンス(Christiaan Huygens)は、二つの振り子時計を壁に掛けて置くとそれらが自然に同期する事を見出したという*3
今日この様な現象は位相振動子系、所謂蔵本モデルにより説明できる。
蔵本モデルでは各振動子が自分の固有振動数によって振動しようとするが、それぞれ周りの振動子から(それぞれ個別な受け易さで)影響を受ける。
この時各々の振動子について、ある程度固有振動数が平均の周波数に近く、そして周りの影響を受け易ければ、振動子の周波数が段々同期してくる事が数学的に証明できる。
さてすると、振り子時計が壁を伝う振動により相互作用して同期する事だけでなく、神経細胞にθリズム等が現れる事さえも位相振動子のモデルにより説明できはしないだろうか?
この考えに立脚すると、上述のθ位相歳差や、更には時系列の記憶の原理にまで迫る仮説が導かれるのである。

即ち、ラットが或る場所細胞の受容野に入るとその場所細胞は自励振動を開始し、他の神経細胞との相互作用でθリズムと同期する(θリズム自体を形成してもいる)。
一般に平均の周波数に同期した各振動子は、固有振動数と影響の受け易さに応じて互いに位相差を持っている。
ここで場所細胞の固有振動数が活動を続ける内に増加するとすれば、位相も徐々に早くなってθ位相歳差が生じる事が説明できる。
そしてθリズムの周期毎に時系列順の場所細胞の発火が繰り返される事で、時間非対称な LTP ルール(時間的に先行する/後続する関係にある神経細胞間のシナプスの強化)によって記憶として定着する――という機序である。

山口氏の述べる「海馬のシータリズム位相コード仮説」とは大体こういう話だろう。
何故固有振動数が増加するのか、時間非対称 LTP が実際に働いているのかといった謎は未だ詳らかにされていない様子ではあるが、しかしエピソード記憶の原理をも説明しうる非常に面白い説ではないだろうか。

*1:Laura Lee Colgin. "Mechanisms and Functions of Theta Rhythms". Annu. Rev. Neurosci. 2013. 36: 295-312

*2:BodyParts3D © ライフサイエンス統合データベースセンター licensed under CC表示 継承2.1 日本

*3:蔵本由紀非線形科学』集英社新書、2007 年。