跳慮跋考

興味も思考も行先不明

日常系前史:他者としてのキャラクターとセカイ系

「日常系」は何故生まれたのか。

いや、本当に問うべきは「日常系」という物語の在り方が何故抑圧されて来たのか、という点かもしれない。 神話、民話、小咄や怪談……そうした物語に明確な「メッセージ」や「テーマ」がある事はむしろ少ない。我々の「物語」が持つイメージの偏りに眼をやると、「日常系」よりも先ずはその「前史」こそが究明されるべき謎を湛えている事に気付く。

一体「物語」とはいつから大いなる「テーマ」を持つべきだとされたのか? 「大きな物語」の呪縛はいつ生じ、そしていつ解かれたのか? キャラクターへの読みの到達点として「日常系」を考えるとき、本質的になるのは正にこの問いなのだ。

大きな問いを背負った時

現在の(オタク的)キャラクター文化の起源を考えるならば、手塚治虫の存在は決して無視できない。

森下達『ストーリー・マンガとは何か』*1に拠れば、元々「漫画」とは何らかの物語を持つ作品を言う訳ではなく、画風を指す意味合いの強い言葉であった。戦前の「漫画映画」が漫画原作に限らないアニメーション作品を指していた様に*2、戦後も「テレビまんが」という表現がこの「漫画」イメージと共に存在していた。

そうした状況において、「手塚は、それまでの我が国の漫画の概念を変え、数々の新しい表現方法でストーリー漫画を確立し、漫画を魅力的な芸術にした」*3というのが一般的な認識となっている。手塚が「ストーリー・マンガ」を創始したという主張は、つまり手塚において「漫画」が初めて物語の媒体となった事を意味している。

「新しい表現方法」とは具体的には「映画的手法」だとされているが、これについて伊藤*4は戦前の先行例を挙げつつ、手塚において実際に新しかったのは何か、といった点を批判的に検討している。これは「マンガ表現論」の系譜にある仕事だが、森下は「物語そのもの」への観点も踏まえて更なる分析を行い、手塚が「古典的ハリウッド映画」からモンタージュ技法の様な視覚的にキャラクターの内面を描く表現(「曇り空は暗い気分の隠喩」といった今日の教科書的な読解もその一種と言える)を取り入れつつも、それを信じきれずに戯画化した表現(手塚自身が「記号」と呼んだもの)へ繰り返し回帰する様を指摘した。

「古典的ハリウッド映画の物語は、例外なく、個人の心理的原因、すなわち決心、選択、人物の特徴を中心に展開する」*5。こうした物語を描く為、「古典的ハリウッド映画」的様式は必然的に内面描写のシステムを必要とするが、風景による内面の描写はその典型例だろう。これはやがて「劇画」ジャンルにおいて全面的な採用を見るが、手塚の揺れ動く表現形式はその先駆的な試みとして改めて位置づけられる。

戦前・戦中期の漫画においては善悪などが視覚的デザインの次元で定められ、与えられた役割を全うするのみだったキャラクターは、こうした内面の表現を獲得する事で「近代的自我」の媒体となった。「風景」そして「内面」は正に近代文学において「発見」され、書かれるべきものとされた存在であった*6。 ここに「漫画」は単なる画風ではなく、近代的物語の、「文学」のメディアとして成立したのである。

「かつて、「われわれはどのような世界を生きているのか」「人間が生きるとはどういうことなのか」といった大きな問いとともに文学が読まれた時代があった。」*7 この「大きな問い」は「大きな物語」と表裏一体だ。漫画が「文学」としてメインカルチャーへ踏み入れたとき、同時に漫画には「大きな問い」が背負わされたと言える。ただ例えば手塚が近代文学黎明期の作家達と同じ問題意識を持っていたとは考え難く、よりシニカルに(そして「文学」の権威を相対化して)言えば、内面や自意識という近代の関心事に合致する内容を偶々描いた為に、漫画が「大きな問い」に答える「大きな物語」を内包すると見做されてしまったのかもしれない。

文学の本流においては曖昧な「大きな問い」による批評が見直され、「フェミニズム批評」「ポストコロニアル批評」といった理論が打ち立てられ、今や当たり前に理論を駆使する批評が成立した。カジュアルな語りはそうした展開から取り残され、今尚「人生というものが描かれているか」といった「大きな問い」に立脚する見方が横行している。(作家論一辺倒の評論もその一種ではないだろうか?)いや、そうした分析自体は可能なものだが、我々がそこに「文学」の権威を感じてしまう事により、一方で「キャラクターの魅力がどう演出されているのか」といった旨の大々的な語りは抑圧される状況がある様に思われる。

漫画について言えばこれは「マンガ表現論」の動機*8と通ずるものであり、アニメにおいても『けいおん!』に成長を見出す論調(例えば広瀬*9や禧美*10)は正しく典型的な「大きな問い」からの目線となっている。(『けいおん!』のアニメ化では原作に多くのエピソードが追加され、ストーリー性の高い青春物として「仕上げられている」点には注意が必要だろう。) 作品*11を解釈するというのは書かれていない事を自分勝手に読み込むという点で能動的行為であり、その意味においてこうした評論は日常系を近代の枠組みに押し留めようとする明白な圧力に他ならない。

『"日常系"ヒットの法則』*12はより広い視野からの理解を試みているが、そこでは日常系誕生の端緒として大きな物語の崩壊と、コミュニケーション志向の進展が指摘されている。

大きな物語の崩壊」という観点は東浩紀動物化するポストモダン』で論じられている通りだが*13、1995年を強く意識する点では宇野*14により近いかもしれない。足立*15は「大きな物語」を失って遊離する人々を再編する「絆」の主題を70年代の『宇宙戦艦ヤマト』の時点で見出し、60-70年代から語り始める(つまり西洋とほぼ同時に日本のポストモダン化が進行したとする)東の議論を補強している。 とにかく「大きな物語」がリアリティを失った事で「日常系」が現れた、という観点はこうした文脈を踏まえると自然な発想と言える。ただこれは消極的理由に過ぎない。

コミュニケーション志向、これは例えば『らき☆すた』『化物語』(サブカルネタの飛び交う会話はオタク的なコミュニケーションを取りたいという欲求に訴えるものだろう)といった作品を積極的に選ぶ理由となるが、そうではなく日常系をこそ選び、「他愛もない会話の中での友達への気遣いや、卒業前に揺れ動くそれぞれの心理状態など、微妙かつ繊細な機微」*16を読み取る態度とはやや距離がある。何故ならその態度はキャラクターを擬似的なコミュニケーションの相手として体験すると言うよりも、第三者として観察するという立場に基づくものだからだ。そこにはもっと根本的な、自立したキャラクターそのものへの視線がなくてはならない。

対象/他者への読み

「微妙かつ繊細な機微」を第三者として読み取る事、これは映画的な手法への読解力とは大きく異なる。

ハリウッドにおいて培われた脚本術では、観客がメインキャラクターと感情的に結び付き、己の半身の様に感じて体験を共有する事が肝要とされてきた*17。(尚これを感情移入と呼ぶかどうかはかなり議論のあるところらしい。)一方で日常系作品においては、(当初の)メインターゲットである男性読者が参照すべき男性主人公は基本的に存在しない。そこではキャラクターは自己ではなく他者として、認識主体ではなく認識対象として読まれるものと考えられる。

精神性や関係性の重視において日常系と重なり合う部分のある「百合」ジャンルでは特にこの点に意識的であり、「第三者視点で見て感じるもの」*18「百合は二人いるのを外部から見て決めるもの」*19といった証言で端的に表現されている。 あるいは関係性コンテンツに対する「(何も干渉せず鑑賞するだけの)壁になりたい」という言い方も同じ傾向として指摘できるだろう。

こうした読みの端緒は、日常系に先行する流行であったセカイ系において見出される様に思われる。 「セカイ系」について笠井はいわゆる「キミとボク」の「「引き裂かれ」てしまうリアリティ」を本質的なものとした*20。宇野はこの手の悲劇性を「安全に痛い自己反省パフォーマンス」であるが故に文学性を損なうものとしている*21が、実際には「安全」であるほど「「引き裂かれ」てしまうリアリティ」は失われてしまう様に思われる。

大きな物語」という概念を念頭に置けば、セカイ系は「大きな物語の凋落を補うために作られたもの」*22と見る事ができる*23。「自分‐世界」という回路が断たれ、「自分‐日常」が強固に結びついてしまった状況*24において、ヒロインという他者が媒介する事でようやく世界(大きな物語)への関与を信じる事ができた、そうした時代のリアリティの在り方を反映したのがセカイ系であった。しかし「ヒロイン‐世界」の結びつきは結果的にヒロイン自体をも自分(主人公)から遠ざけてしまう。ここには「世界セカイから疎外される主人公」という共通の構造を取り出す事ができる。

実際、セカイ系においては「きみとぼく」の問題が具体的な中間項(社会)を挟むことなく「世界の危機」と直結する*25、と言うよりも、中間項は確かに存在するものの主人公のアクセスは阻まれる場面が目立つ。『イリヤの空、UFOの夏』において浅羽直之は情報統制の下、イリヤ(そしてイリヤの所属する軍)が何と戦っているのかさえ終盤まで知る事はできないし、結局一度も実際の戦闘を目撃せずに物語は幕を閉じる。『最終兵器彼女』においてシュウジはちせの自衛隊における立ち振る舞いを知る事はないし、また時としてちせの内面が手紙などの手段で一方的に開示されるのも主人公の疎外を思わせる場面だろう。セカイ系の代表とされる3作品の内で『ほしのこえ』のみ、主人公ノボルはミカコへの(「艦隊勤務」の言葉で示唆される)国連宇宙軍という中間項への正当なアクセスを達成している。ただ『ほしのこえ』におけるヒロインの立ち位置はあくまで多数の「選抜メンバー」の一人であり、「ヒロイン‐世界」の結びつきはそれほど決定的ではない。新海誠作品で言えば、2年後の『雲のむこう、約束の場所』の方がヒロインの決定的な重要性や中間項からの疎外(その裏返しかの様に米軍・アーミーカレッジ・ウィルタ解放戦線は互いに結びついて均質化している)という点で他2作品の様な「セカイ系らしさ」が際立っているかもしれない。そして『雲のむこう、約束の場所』においても、冒頭においてやはり「別れ」が示唆されているのだ。

こうしてキャラクターへの読みの立脚点は、セカイ系により第三者へと移行し始めた。宇野がセカイ系から日常系への転換点を見出している*26涼宮ハルヒの憂鬱』では、「やれやれ」系などと呼ばれる諦念含みの一歩退いた立場が打ち出されているが、そこに第三者化の進展を見る事も可能だろう。

近代文学が主体(自己)の内面を前景化したとすれば、セカイ系~日常系の流れは対象(他者)の内面の前景化を齎した。90年代に発生した「萌え」概念は確かにキャラクターの内面を示唆する面もあるが、そこに自意識(自己への意識)が内包されている点でやはり前者の段階に近い様に思われる。

足立は田中桂のイラスト指南書を引いて「萌え」の回路を何らかのキャラクター体験=「ドリーム」(ツンデレの場合「強気な女性に愛されたい」となる)の示唆として説明している*27が、これも主体としての体験と解釈できる。「萌え」概念は今や日常的な語りには用いられなくなって久しいが、それは単なる流行り廃りではなく、こうした鑑賞における自意識の後退を反映するものと捉える事ができるだろう。

日常への眼差し

「ストーリー・マンガ」によりオタク的な読解力は主体と「大きな物語」に縛られたが、「セカイ系」においては主人公の疎外という形で「大きな物語」が遊離し始め、同時に主体ではなく対象(他者)への読みが浮上した。大仰な問題設定であり調査を尽くしたとは言い難いが、差し当たって冒頭の問いにはこう答えられる。

ソーシャルゲーム(やVTuber?)の台頭によりキャラクター体験の主戦場は既に日常系作品を去ったという見方もあるが、日常系的な読解力そのものはあらゆる領域へ浸透した。また『まどか☆マギカ』のキャラクターが日常系の絵柄によって描かれた事も、こうした文脈を踏まえると示唆的である。それは日常系的な読解力を「日常系」そのものから引き剥がす上で、重要な契機となったのかもしれない。(「暁美ほむらの叛逆について」は正にその様な読みの実践を意図している。)

コミュニケーション志向は読み手を当事者として引き込む事から、第三者の視点とは衝突する傾向にある。

ソーシャルゲームについて考えると『Fate/Grand Order』から『ウマ娘 プリティーダービー』に至るまで、キャラクター同士の掛け合いの描写により関係性コンテンツの側面を持ちつつも、少なくとも形式としては主人公を配置して主体としての体験を提供しているものが主流になっている。 こうした傾向にはコミュニケーション志向の他にも、収益構造上の問題が影響しているかもしれない。ソーシャルゲームの収益は、ガチャで得られるアイテム類(キャラクターを含む)にゲーム内の強さやストーリー上の魅力で価値を与える事で実現されている。これはキャラクターと交流する為にガチャで取得する、という形でコミュニケーション志向とは相性が良いが、キャラクター同士を組み合わせるという楽しみ方ではいわゆる「コンプガチャ規制」*28の縛りを受ける事になる。この規制はソーシャルゲーム市場が発展途上にある2012年に、アイテム類を組み合わせて別の報酬を得る方式が消費者庁により景品表示法違反とされたもので、これにより関係性コンテンツを直線的に収益へ結び付ける事は難しくなっている。つまりキャラクター同士の交流を見る為にガチャを引く、という消費行動へのアプローチは(完全に規制されてはいないにせよ)法的リスクが伴う。

とは言え上述の様に、関係性コンテンツの要素は今や普遍的となっている。「微妙かつ繊細な機微」があらゆる作品で読み取られる、という事は逆に言えば、日常系でさえ「何事もない日常」である必要はない、という事態にも繋がる。この点で『まちカドまぞく』は「闇の一族の封印を解く」などの大目標を持ってストーリーを進めながらも一貫して日常系の空気感を保っており、注目すべき作品と言える。 (ドラクエ的な「魔王と勇者」の構図を突き崩そうとする試みは『まおゆう魔王勇者』が代表的か? また「日常系ファンタジー」を掲げる非常に意識的な作品として『えんどろ〜!』がある。)

思想史の文脈における「他者」は、単に自己(認識主体)でない者という以上の意味があり、個人を越えて己の属する社会や文化圏にとっての「外部」という含みがある*29。この稿での「他者」はそれを踏まえた言葉という訳ではないが、認識主体を疎外する者、裏切りうる者としてはやはり「外部としての他者」の一面があるとも捉えられる。

宇野は競争的な世界観(新自由主義)の内面化を「決断主義」と称して、「小さな物語」(宇野はこれに東の「大きな物語の凋落を補うために作られたもの」に当たる意味合いを込めている)を敢えて信奉する決断主義同士の衝突を指摘した*30が、「他者への読み」はむしろ他者の持つ様々な「小さな物語」への共感を呼び覚ます事で、各人の慣れ親しんだ世界の外部へと開かれた倫理性に繋がる様に思われる。

その在り方と意義については既に「『動物化するポストモダン』における諸概念」で書いている為繰り返さないが、「大きな物語」なくして倫理も文学も無い、という信念が近代の生んだ幻想に過ぎない事は改めて指摘するに値するだろう。

*1:森下達. ストーリー・マンガとはなにか 手塚治虫と戦後マンガの「物語」. 青土社, 2021.

*2:津堅信之. 新版 アニメーション学入門. honto版, 平凡社, 2017, (平凡社新書), 17.3 %.

*3:手塚プロダクション. "手塚治虫について". 手塚治虫公式サイト. https://tezukaosamu.net/jp/about/, (accessed 2022-01-10).

*4:伊藤剛. テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ. 星海社, 2014, (星海社新書), p. 182-292.

*5:Bordwell, David; Thompson, Kristin; 藤木秀朗. フィルム・アート 映画芸術入門. 名古屋大学出版会, 2007, p. 86.

*6:柄谷行人. 日本近代文学の起源 原本. honto版, 岩波書店, 2021, 4.0-39.5 %. 残念ながら定本版は電子化されていなかった。

*7:三原芳秋, 渡邊英理, 鵜戸聡. クリティカル・ワード 文学理論 読み方を学び文学と出会いなおす. honto版, フィルムアート社, 2020, 38.2 %.

*8:伊藤剛. 前掲書, p. 27.

*9:広瀬正浩. 「空気系」という名の檻 : アニメ『けいおん!』と性をめぐる想像力. 言語と表現―研究論集―. 2013, no. 10, p. 7–22. http://id.nii.ac.jp/1454/00001918/, (accessed 2022-01-03).

*10:禧美智章. 「空気系」と物語 : 『けいおん!』にみる成長の物語 (中川成美教授退職記念論集). 立命館文學 = The journal of cultural sciences. 2017, no. 652, p. 1216–1227. http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/652/652PDF/Yoshimi.pdf, (accessed 2022-01-03).

*11:「作品は作者の意図の反映である」といった見方と結びついた「作品」よりは「テクスト」を使うべき文脈だが、分かっていないと「テキスト」の気取った表記にしか見えない点で使い難い言葉である。

*12:キネマ旬報映画総合研究所. “日常系アニメ”ヒットの法則. キネマ旬報社, 2011, (キネ旬総研エンタメ叢書).

*13:手短には「『動物化するポストモダン』における諸概念」参照

*14:宇野常寛. ゼロ年代の想像力. honto版, 早川書房, 2011, (ハヤカワ文庫), 17.3 %. など

*15:足立加勇. 日本のマンガ・アニメにおける「戦い」の表象. honto版, 現代書館, 2019, 6.7-7.3 %.

*16:キネマ旬報映画総合研究所. 前掲書, p. 181.

*17:Gulino, Paul Joseph; Shears, Connie; 石原陽一郎. 脚本の科学 認知と知覚のプロセスから理解する映画と脚本のしくみ. フィルムアート社, 2021, p. 33-43.

*18:柴田勝家. 特集, 百合特集: 〈コミック百合姫〉編集長インタビュウ. S-Fマガジン. 2019, vol. 60, no. 1, p. 44.

*19:天野しゅにんた, 青柳美帆子. 特集, 百合文化の現在: 女子と/の恋愛 百合という観測問題. ユリイカ. 2014, vol. 46, no. 15, p. 98. 「森島明子先生がおっしゃっていたもの」とされている言葉の一部。

*20:笠井潔. 特集, ポストライトノベルの時代へ: 社会領域の消失と「セカイ」の構造. 小説トリッパー. 2005, 春季, p. 42.

*21:宇野. 前掲書, 51.3-52.3 %.

*22:東浩紀. 動物化するポストモダン オタクから見た日本社会. 講談社, 2001, (講談社現代新書), p. 56.

*23:宇野. 前掲書, 92.4 %. 「女性という被差別階級の世界にならまだ大きな物語が機能しているはずだ、男性が信じられなくなったものを女性だったらまだ信じられるんじゃないか、というファンタジー」何とも口が悪い。

*24:前島賢. セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史. honto版, ソフトバンククリエイティブ, 2010, (ソフトバンク新書), 30.5 %. 「ちせとシュウジの恋愛描写とはまるで正反対に、その戦争描写、SF描写は恐ろしいほどリアリティを欠いている。しかし、一読者として正直に告白すると、そのような描写に(矛盾するようだが)リアリティを感じ取ったのも事実である。たとえば著者は13歳で阪神・淡路大震災オウム事件に遭遇した。まるで戦争でも起きたかのように大都市が壊滅し、あるいは東京が大混乱になる。しかし、その日も次の日も日常は続き、学校はあり、昼の時間にテレビをつければ「笑っていいとも!」が流れていた。『最終兵器彼女』の戦争は、その記憶を思い出させた。」

*25:前島賢. 前掲書, 11.3 %. などに挙げられている一般的な定義(ポスト・エヴァンゲリオン症候群的な自意識への言及を排したもの)の要約。

*26:宇野. 前掲書, 75.2 %. 『リトル・ピープルの時代』『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』にも同様な主張がある。

*27:足立. 前掲書, 19.8-20.6 %.

*28:例えば "コンプガチャは具体的に何がいけないのか? 消費者庁発表資料を読み解く". ファミ通.com. 2012-05-18. https://www.famitsu.com/news/201205/18014911.html, (accessed 2022-02-12).

*29:例えばサイードの批判した「オリエンタリズム」は西洋(自己)から見た東洋(他者)について、その他者性(外部性)を奪おうとする姿勢と言える。西洋が求めたのは驚きや発見(それはアイデンティティの動揺でもある)を齎す外部としての他者ではなく、安全にアイデンティティを保証するだけの取り込まれた他者だったのだ。

*30:宇野. 前掲書, 8.3-12.5 %.