跳慮跋考

興味も思考も行先不明

『テヅカ・イズ・デッド』の解釈メモ

伊藤剛テヅカ・イズ・デッド』(NTT出版、2005)はよく参照される割にその解釈が一致を見ていない様だ。ここで伊藤剛の「キャラ/キャラクター」についての考えを纏める事で、個人的に決着を附けておきたいと思う。ただ『テヅカ・イズ・デッド』以降の議論を十分調べたとはとても言えないので、「メモ」とはそういう釈明の含みがある。

以下の参照は新書版(星海社、2014)による。

伊藤剛の定義

元々の「キャラ」及び「キャラクター」の定義は以下の通り:

多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの


一方、「キャラクター」とは、「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ・・・・・・・、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの

(p.126)

「人格・のようなもの」という表現は、キャラが想起させる「人格」が十分詳細ではない、限定された特徴のみ備えたものだという事だろう。キャラが発話したり、笑ったり泣いたりする時、我々はそれを現実の人間(人格)が行うものと同じ行動と理解する。一方でキャラが「学校の成績が悪くてこのままでは将来が危ういかもしれない、何かしたほうがいいんじゃないか」といった話を始めると、それは最早表層からは窺い得ない内面の存在が提示されており、「キャラ」の範疇に収まらなくなったと言える。そのキャラは描かれた時点より先の「人生」や「生活」へ言及しており(最近の言い方では「質感」を持ち)、「キャラクター」の領分へと踏み込んでいるのである。

伊藤は「キャラ」がその存在感によって「キャラクター」の基盤を成しているとし、「前キャラクター態」とも呼ぶ。漫画の中の(図像としての)登場人物は単一のテクスト(話)に現れるのではなく、様々なテクストに繰り返して同じコード(記号的な特徴、アトムでいうツノなど)・同じ固有名で現れる事で自立性を持ち、特に連載という(近代の出版流通システムに支えられた)形態で読者の前に現れ続ける事で「前キャラクター態」は成立した(p.145)。

記号としてのキャラ

「簡単な線画を基本とした図像で描かれ」という部分はこの歴史的経緯に因るもので、幾らか拡張が可能であると考えられる。しかし異様に筆の速い集団が写実的な絵柄で漫画を描き続けたとして、その写実的な登場人物の図像は「キャラ」となるだろうか。あるいはゲームに登場する精緻な3Dモデルの人物は「キャラ」だろうか。個人的な感覚だが、そこには伊藤の言う「現前性」が欠けている様に思われる。

さらにリアリティとは、「もっともらしさ」と「現前性」とに分けて考えることができる。作中世界の事件やものごとをいかにも「実際にありそうなこと」に感じさせるという意味の「もっともらしさ」と、作中世界を、あたかも自分の目の前で起きているように感じさせたり、作品世界の出来事がありそうかありそうでないかにかかわらず、作品世界そのものがあたかも「ある」かのように錯覚させることである「現前性」である。

(p.113)

伊藤は「キャラクターが立っている」場合は強い「実在感」が感じられるとしている(p.132)。「キャラ」の「現前性」とは合理性だとか我々の現実世界に沿っているかとは関係のない、「分かりやすさ」「インパクト」から来る性質なのだろう。その点で、大塚英志を引いて記号の集積、「記号的身体」という言葉で説明している(p.116)部分がより本質的ではないか。

身体

「「身体」の表象」とはどういうことか。

私は身体(性)という言葉は碌に定義して使う人間がおらず嫌いなのだが、ここでは現実の人間のあらゆる体験の源泉といった意味合いと推察できるだろう。

「生活」とは、人が自身の身体を維持することの総体を指す言葉であるし

(p.120)

つまり登場人物を「キャラクター」として読むという事は、そういう現実世界同様なしがらみを持って(作品)世界の中に生きていると捉える事に相当する(p.150)。先の例で言えば、学校という制度だとか将来を考えなければならない(「その日暮らし」の否定)という規範だとかに囚われる事で身体性を伺わせているのである。

「キャラ」と比較すると「キャラクター」の「身体」はより記号性が低く、写実性を持って描かれたリアルな肉体の事の様にも思われるが、伊藤は「マンガのおばけ」「ウサギのおばけ」概念を用いてこれを否定している(p.318)。

大まかにいえば、ディズニーを含む手塚以前の漫画/キャラクターとは、記号的表現に終始し、その「死」は描かれない。たとえ損傷するような表現がされたとしても、それは概して「身体の損傷」とはされず、たとえば「銃弾が当たっても『星』マークが出るだけ」という「『平面的』で傷つかない存在」として描かれていたとする。

(p.164、大塚英志アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』について)

こうした記号的な身体が「マンガのおばけ」であり、具体的・物理的な傷つき死にゆく体が「ウサギのおばけ」である。深みのある「キャラクター」は「ウサギのおばけ」にしか宿らない、という立場は屡々自明なものとされるが、伊藤によればこれこそ手塚治虫のもたらした「マンガのモダン」の呪縛なのである(p.319)。その現場と見定められている『地底国の怪人』の分析(第3章)については読解に自信が無いが、「キャラ」=「ウサギのおばけ」として兎男を描く事でその「かわいさ」(現前性)により読者を惹き附けた後、「ウサギのおばけ」(人間だが)として死なせる事で「キャラクター」化し、「キャラ」の力を「キャラクター」の方へ回収してしまった。そういうシナリオではないかと思う。より大雑把に言えば、手塚が「ストーリーマンガ」を確立する事で「キャラ」自体の魅力が見失われ、「キャラクター」ばかりが追求されてしまった。

実際には「マンガのおばけ」に「キャラクター」を宿らせる事が可能だし、感情は身体や主体が「本物」(人間に準ずるもの)でなくともそれ自体として存立しうる(p.326)。

社会学的な「キャラ」及び「萌え」

社会学の領域ではコミュニケーションにおける振る舞いの類型化としての「キャラ」概念がある(文献としては瀬沼文彰『キャラ論』などがある様だ)。時にこれを伊藤の「キャラ」と同一視していると思しき議論があるが*1、小田切博『キャラクターとは何か』(筑摩書房、2010)で指摘されている(当該書p.119)様に伊藤自身は「類型としてのキャラ」には言及していない。これは『テヅカ・イズ・デッド』の表現論を志向する態度に因るものだろう。伊藤は「コマ構造」「言葉」と比肩するマンガ表現の構成要素として「キャラ」を求めた(p.118)。そこではどうしても抽象的な概念ではなく視覚的な表現としての「キャラ」が必要だった。

少し「萌え」の話をすると、伊藤の言う様に「キャラ」の強度として「萌え」を説明する事は部分的には可能だ(p.134)。しかしそれは「ねこみみ」だとかの視覚的要素に留まるものであって、「ツンデレ」とかの行動様式に目を向けると収まりが悪い。ツンデレの象徴と言えば「別にあんたのためにやったんじゃないんだから!」の様な言動であり、明らかに「言葉」の領分に依るところが大きい。というか表現よりも寧ろ表現されているところのもの(シニフィエ)、人格に関する概念と言えるだろう。一方で萌え要素は「キャラクター」の領分でもない。「ツンデレ」は実在感のある人間ではなく、類型化された「人格のようなもの」の一つだからだ。「人格・のようなもの」ほど曖昧ではなく具体的な振る舞いを持つ「人格のようなもの」を、ここで「擬人格」と呼ぶ*2事にしておく。

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「キャラ」と「キャラクター」。
「ウサギのおばけ」と「マンガのおばけ」は図像であり、前者が実際の人間と同じ概念を意味内容(シニフィエ)とするのに対し、後者の意味内容にはどこか明確な実際の人間との乖離、「のようなもの」と言うべきところがある。

伊藤の提示する概念、特にその「マンガのモダン」に於いて信じられていた関係は上の様に整理できるのではないか。「マンガのモダン」では「ウサギのおばけ」のみが「現実の身体」を表象するからこそ「人間」を描けると信じられてきた。(この状況では右上がフォスターの「ラウンドキャラクター」に、右下が「フラットキャラクター」に丁度当たるだろう。)また「キャラ」は単に「人格・のようなもの」を表象するだけだった。しかし実際には「人格」とは「マンガのおばけ」であっても表象しうるもので、また「キャラ」の側から言っても「人格・のようなもの」は内実を帯びて「擬人格」となり、感情などの面では本当の「人格」に達しうる、我々はモダン以降そうしたキャラへの読みを培ってきた(p.326)。『地底国の怪人』と『GUNSLINGER GIRL』の比較(p.320)について言えば、手塚治虫の時代には「ぼく 人間だねぇ」と言ってやらなければ「人格・のようなもの」が実際の人間に引き附けて解釈されなかったのが、「私は何から何まで偽物ですね」という言葉が忌避されている事実(そのキャラが欲望の反映された被造物であるという事)の暴露として刺さるほどに「キャラ」の向こう側の「人格」が当然視される様になった。

こうした状況を踏まえれば、社会学的な「キャラ」とは「人格」の類型が「擬人格」の形態と重なったものであり、擬人格の具体的な有様について重要な示唆を与えていると言えるだろう。

図の右下に当たる概念(モデル)をここでは「フィクショナルキャラクター」と呼ぶ事にしよう。竹熊健太郎斎藤環の議論(俺と萌え(番外)フェチと萌えは違う?: たけくまメモ)を参照すると、伊藤の言う「キャラ」の強度としての「萌え」は実際には「マンガのおばけ」へ生ずる「フェチ」であって、「萌え」は何らかの「フィクショナルキャラクター」の形態への嗜好と整理すべき様に思われる。

「キャラの自律化」とは何であったか

「人間の自律化」という事は通常言われないが、それは人間がこの世界の決定論的な因果の連鎖とはある程度切り離された自由意志を持つという事が殆ど自明視されているからだ。人間は世界の一部ではなく世界に対峙する者であり、様々にもし別の世界にいたら? という事も想像できる。実際の人間の意思決定には多分に環境の影響が関わってくるが、「近代的自我」の思想が根附いている我々の素朴な理解はそうなっている。

「キャラ」の場合に何が違うのか? 我々はキャラ(フィクショナルキャラクター)が作品世界の中に生きていると当然に理解する。キャラには物語に述べられた以上の人生があり、きっと我々と同じ様に思考しながらその人生を選び取ってきた。そうした理解によって二次創作が駆動され、時には「現パロ(現代パロディ)」で作品世界は現実世界に替えられ、時には「クロスオーバー」で相異なる作品世界が結合さえされる。

例えば非常口マークを思い出すと、駆け込んでいる緑の人物は「脱出」という行為を表現しているのみで、「人格・のようなもの」を表象する事は特にない。これは「キャラの自律化」以前の状態、「キャラ」未満の図像である。しかしこの人物に「ピクトさん」という愛称がある事や、非常に多くのバリエーションがある事(日本ピクトさん学会を参照)を知ると、俄かに「人格・のようなもの」が立ち上がってくる。このスムーズな「キャラ」化、これこそ「キャラの自律化」が進行し切った現代の感覚だろう。そこで「この人物が現実にはどんな髪型だろうか」とか気にする必要はない。この記号的身体こそが「ピクトさん」の身体であるとして、現実の身体を経由せずともどんな事を考えているのかと想像を膨らませる事ができる。「キャラ」ではなく「キャラクター」への読みに於いて中継地点となる「現実の人間」、それを排してもキャラ図像(「マンガのおばけ」)の向こう側へ想像を展開できる。これこそが「キャラの自律化」と呼ばれている転換だろう。

現代の視点からすると無用とも思えるこの媒介が必要な時代が恐らくはあった。それ無しにはキャラ図像の提示する言動を統合して理解できない、そういう「読み」に留まっていた時代が。しかし今や我々は、当然に存在するキャラ図像の向こう側の内面、「フィクショナルキャラクター」、その「擬人格」について、一体いかなる存在なのかを更に考えていかなければならい。

論点の整理

  • 「キャラ」は類型化されたキャラクターか?
  • 否。伊藤の「キャラ」は具体的な図像に重心があり(特に「マンガのおばけ」と呼ぶ場合)、一方で「キャラクター」はその意味内容(表象される「人間」)に重心がある。

  • 「キャラ」は社会学的な「キャラ」と一致するか?
  • 恐らく否。伊藤の「キャラ」は意味内容として「人格・のようなもの」を持つが、「人格・のようなもの」は飽くまで人格の存在を示唆するだけであって、何ら具体的な内実は断定させる事がない。

  • 「キャラ」「キャラクター」という概念は有効か?
  • (一般に考えられているよりは)否。漫画の議論から踏み出すとこれらの概念が表現(具体的な図像)を軸に定義されている事が足枷となる*3。「実際の人間」に対立するところの「フィクショナルキャラクター」概念を基礎とすべきではないか。(「キャラ」をその様に読み替えて使い続ける事には反対だ。「キャラ」は単純に用語として紛らわしく、伊藤の定義を超えてまで使うよりも別の概念を立てた方が良い。)

  • 「萌え」は「キャラ」に対する現象か?
  • 是。特にその意味内容たる「フィクショナルキャラクター」固有の現象と考えられる。逆に言えば現実の人間に対して「萌える」時、我々はその人間をむしろ「フィクショナルキャラクター」的に解釈している。

  • 「フィクショナルキャラクター」の内面(人格のようなもの)はやがて「実際の人間」のそれと一致するか?
  • 恐らくは否。「フィクショナルキャラクター」の記号的な性質、現前性はどれほど「読み」が発達したとしても「実際の人間」とは異なる理解モデルを要求し、人格ではなく「擬人格」として固有の存在であり続けるだろう。

課題

  • 「記号性」とはどういうものか? 簡略化された表現は全て「記号的」か?
  • 記号的身体はそれに附随する内面へどういう制約を与えるか? あるいは逆にどう開放するか?
  • 「フィクショナルキャラクター」特にその「擬人格」は現実の人間とは具体的にどう違うモデルで理解されるか?

*1:例えば境真良『アイドル国富論』(東洋経済新報社、2014、電子版v1.0)第3章3「アイドルの魅力は、アニメ、ドラマのキャラクターに関するマンガ研究者の伊藤剛の議論を踏まえると、その具体的な素の存在に基づく(狭義の)「キャラクター」性と、それと類型化されたイメージの中から選び取られた「キャラ」 性との二重構造を持っていると考えられます。」

*2:「擬」としたが、これが実際の「人格」の機能を単に制限したものに留まるかどうかは明らかでない。私は寧ろ超越する事もあり得ると信じたい。

*3:東浩紀は『ユリイカ』2006年1月号の鼎談でキャラの「脱図像化」という事を言っている様だが(未確認)、同じ問題意識によるものだろうか。