跳慮跋考

興味も思考も行先不明

年語

雑談の様な気分で普段より緩く書いている(括弧を多用したり表現の重複を許したり)ので読む場合は留意されたい。

V

ずっと椎名唯華を見る(「追う」と言うほど積極的な言い方はそぐわないだろう)一年だった。ママ(担当イラストレーターを指す。性別を問わず、「パパ」と言うと動かした人=Live2Dモデラーを指す場合が多いが、当人の性別に合わせる場合もある)を知っている事もあり去年のデビュー当初から見ていたが、別に初期も言われているほど清楚っぽくもなく、リスナーをゴリラ呼ばわりするところなど傍若無人の片鱗はあった要にも思う。別に見返した訳ではないので後知恵バイアスかもしれないが。今年の配信ではまず(元)ゲーマーズのコラボが活発になった事を喜びたい。統合前は割合箱(恐らくアイドル業界に由来するグループ一般の俗称)としての活動が目立たなかったものの、互いに意識はあったしそうした文脈の上でようやくメンバーの集う機会が増え出したのは感慨がある。純粋にいわゆる「撮れ高」的観点からすれば挙げるべきは郡道美玲とのギリギリ極まるMHW攻略だろう。まぁ本人は「撮れ高より楽しいと思う事」優先との話だが。シージ部の硬派なFPSにあるまじき爆笑、湊あくあとの(かなり向きが偏った)絡みなど千差万別のコラボについてそれぞれ触れたくなるがそこまではしないでおく。「運ゲーマーズ」の称号(彼女についてはあまりに再現性がある様に見えて殆ど蔑称ではなくなってしまっている)を不動のものとしたポケモン剣盾ゆびをゆる大会も記憶に新しい。個人配信で言えば、キレ芸を気に入っていたらしき時期のマリオメーカー2配信が非常に面白かった。「アメーバピグ人狼で小学生と喧嘩している」という出来の悪い噂の如き本人談もこれを見ると信憑性が増してきてしまう。
V(バーチャルYouTuberと態々呼ぶのは今や紙幣を「日本銀行券」と呼ぶくらいの野暮ったさがある)について「ガワ」と「魂」という分割があるが、私の中ではアニメからの文脈が強いので「ガワ」の方がV認識の主調になっている。しかし、だからといってVをIPとして扱えるかと言えば答は否だと思う。幾ら「魂」以外に多くのクリエイターが関わっているとしても、配信やSNSでのコミュニケーション、インタラクティブなコンテンツ提供には剰りに多くを魂に負わせてしまっているのが現状だ。「インタラクティブなキャラクター」というのは本来、ガワの生成にも増して途轍もない労力を要するのであって、そこの人間味を実際の人間(実証主義者としては「と思しきもの」と付け加えよう)に頼るという広き門を選んだ代償は安くない。ゲーム部の一件はその辺りの人間、パーソナリティの否応なく侵出する強度、キャラクターというものの難しさを示していた様に思う。
いちから社の掲げる「バーチャルライバー」はその辺り始めから割り切っていて(というか当初は配信アプリ業をやるつもりで、そもそも前提が異なるのだが)、必然的にパーソナリティ的な現れを許す側面がある。ただ「芸人集団」とも呼ばれる様なライバー各々のエンターテイナーとしての気質が、結果としてはキャラクター的振る舞いを誘導している。椎名唯華のクズキャラなどもそうして生まれてきたものだろう。(鷹宮リオンが「待ち合わせには遅れない」と証言する度リスナーに「解釈違い」などと身も蓋もないコメントを貰っている。前に椎名は魔界ノりりむとも「リアルでは遅れないから」という話をしていて信憑性はある)分かりやすいのはレジラジでの問い掛けに乗っかって適当なクズ発言を述べる様な場面だが、彼女は「面白いだろう」という感覚に従って自らのキャラを際立たせに行っている。こうしたキャラ(キャラクター性)のダイナミクスは現実のコミュニケーションでのそれに近いが、Vではそのキャラクター性に明確な記号表現(シニフィアン)を持つ点が異なる。キャラクターとは図像(身体)が人格を表示する記号であり、その点でVのキャラクター性は「性」に留まらずキャラクターとなる。ガワを作っただけでそれが出来上がったと考えるべきではないというのは上に述べた。
パーソナリティとキャラクターとの対立がどの様なものか、と言えば、それはコアとなる体験が「共感」か「再認」か、という事ではないか。例えばある人が愚痴を言ったとして、その人がいつも愚痴を言っている様な人物であれば、「また言ってるよ」と再認する形での楽しみ方が可能になる。一方でその人物と自分側親しければ、「そうだね、嫌だね」と共感し理解するという形で充足感が得られる。キャラクター(性)というのは軽く説明されただけでも理解しやすい一方で、パーソナリティというのはどうしても簡単には言い表せず、そもそも初めは知る動機付けにも乏しい。そういう辺りパーソナリティで売り出すというのはなかなかスケールし(情シス的な意味合い)難さがあるものの、コストが低いので個人Vがやりがちという印象がある。まぁ思うだけで言わないが。後方P面という言葉も最近は聞かなくなり「クソマロ」(クソマシュマロ。質問サービスで投げつけられたクソみたいな意見。私はまぁ悪意があるかどうかは文脈依存性を免れ得ないしかといって悪意があるものは晒し上げたりというのもどうか――別に晒したければ晒せばいいがファンのリプライが集まって公平な批判が難しくなる――と思うので、twitterアカウントを作る勇気がないという層には涙を呑んで貰って公開の場で募集するのが最善と思うが)で一括りになっているが、こういうのは要するに責任を取るという事ができない。責任が取れないならばハナから言うべきではない、それは言葉を軽くするだけだ。同じ理由で心にもない事を言うのもなるべく避けたいという思いがある。

アニメ

Vのお蔭で随分観る時間が減った、とはいえ私は求める体験がキャラクターに大きく寄った人間だし、また見るVもかなり整理されたので来年はまた良い作品を探したいと思う。
まずは『まちカドまぞく』で、きらら的日常系と言うとギャグ率だとか見せ方とかで結構自分には選り好みポイントがあるのだが、この作品はキャラクター造形や演出に関してカリカチュア的な押し付けがましさがなく、それでいてキャラクターそれぞれが自信の思考で動いており、素晴らしい作品だった。アニメから原作をという購買行動を起こしたのは久し振りだった。
『えんどろ~!』も良い作品だ。タイトルの通り(とTLを見ていてようやく気付いたのたが)ロール、社会的役割を放り投げる本作はメタ「魔王と勇者」物であり、その手の作品は数あれどそこにリベラリズムを見出したのは間違いなく稀有な独創だろう。正しく「ありそうでなかった日常系ファンタジー」だ。この様な作品がオリジナルでぽっと出現するのは一種の爽快さがある。
映画も含めるのならば絶対に『天気の子』の話をしなければならない。まずこの作品はエロゲ的でもセカイ系でもない。前半を只の日常描写だと考えたり結末を「陽菜か世界か」の選択と考えているのであれば頭を使ってもう何度か観返した方が良い。帆高と陽菜の生活環境は端的に言えば貧困にある。彼等にとってセカイは別に救うべきものではない、というか考えている余裕などない。この時点でもう本作はa prioriな思想性とは無縁であり、"今"の社会にある困窮した子供の姿を捉えている。その点を踏まえれば、「ガイアのホメオスタシス」要するに自然の竹篦返しが示唆されていても(これは視聴者にだが)力を使って社会の中に居場所を確保し、拳銃を使ってでも敵を退けようとする、破滅的な刹那性を理解できる。そして選択とは「陽菜か世界か」ではなく陽菜を選んだ責任を「背負うか背負わないか」なのだ。社会は彼等にその責任を背負わない選択も示した。だがそれは社会との関係途絶でもある。『風立ちぬ』も同様な破滅の美しさがある作品だったが、提示されたのは行動の次元であって認識ではない。だが行動せざるを得ない時、どう考えるべきか。「背負わない」なら確かにセカイ系として『天気の子』は幕を閉じたが、そうではなかった。その責任を自認する事で、二人は社会との関係を取り結び続ける。セカイは終わらない、何故ならこれからもそこで生きなければならないのだから。友人との語りで私はこれを「責任ある個人主義」と言ったが、このバランス感覚、至極現実的な世界との付き合い方には、「新自由主義以後」のこの社会における個人の在り方が力強く示唆されている。(そういえば『ジョーカー』にも新自由主義批判みたいな話が出ていたが、そう捉えるとあの作品にはその先の「ではどうするか」が無く陳腐極まる作品になってしまうし、『バットマン』ファンの反応を見るにそんな薄い読みをすべき作品ではない様だ)本作の驚くべき時代性はもっと広く認識されて然るべきだろう。

参議院選挙の年。旧民主党は相変わらずの低空飛行だ。「反米リベラル」と言うのかそういう思想性を未だに打ち出そうとしている時点でどうも黴臭さが抜けていないのではないかと思わずにはいられない。まぁ自民も保守思想べったりだったりするが。だから私は安全保障について思考がまとも(現実的)かどうかを気にしているだけかもしれない。山本太郎の台頭も目立った。twitterで色々検索(「エゴサ」という言葉は情報ではなく言及を検索する行為一般に拡張して良かろうと思うのだが謎に根強い反発勢力がいる)したりその辺の人のプロフィールを見たりすると稀でなく支援者が出て来るので単に報道の印象だけではない様子がある。彼は原発事故に関し適当を言ったり最近はMMTケインズの焼き直し以上のものがあるのか私には未だに分からない)に基づき半無限国債を主張したり単なるポピュリストという印象だったが、調べてみるに少なくとも国民生活への目線ではきちんとした問題意識を抱えているらしい。まぁ私は投票したくはならないが。しかし上に言った様にいつまでも既存政党が思想バトルに興じていると足を掬われる可能性は無視できないだろう。未だに「本当はイギリス人全員brexitしたくない筈」みたいな言説を見掛けるのは笑うしかない。そういうエリート主義で庶民の頭越しに難民を受け入れたり貿易自由化したりしてきた結果をいい加減学ぶべきだろう。自分より他人を優先できる人間は多くないし、少なくともそうするに足る教育を与えたかまずは省みる必要がある。私は自分が教育や社会形成の一端に責任があるのも忘れて他の世代に云々言う人間にはなりたくない。少なくともこの崩壊した年金制度を下の世代に渡したくはないが……。
そういえば私はどちらかと言えば愛国的なのだが(愛国的な方が有標になる国って何だ?)、人間が皆令和令和言っているので自分では全く言わなくなってしまった。「令」の字は明朝体の方が恰好良くて好きだが、よく考えると三画目を丶にしているのでどちらとも言えない字体かもしれない。

『アカデミックナビ 経済学』を読んだのが日本経済理解に効いているが、最近の経済学の本はこれしか読んでいないのでもう少し他の本にも伺いを立てたいところがある。とは言えこれによってようやく経済政策の成果とされる失業率等の指標とよく指摘される「家計」の間の乖離を小泉構造改革新自由主義によって結び付けられる様になった。
ナチス 破壊の経済』は大部だが別にデータの羅列と言うのではなく、実証の為の記述でどの部分にも読む価値がある。私は「通俗的ナチス経済の理解」が抑々分かっていないので、その辺り驚きと共に読むという事にはならなかったが、自分に常識を常識そのものとして教わるのが嫌いで常識を土台にしている何物かから得たいという無駄な本格派志向というか見栄があり、その意味ではこの本からナチス・ドイツの知識を得たのは良い選択だった。月並な感想を言えば「奇跡」など無いという事だろう。増産の為には資本を何ヶ月も前から投入し原材料を割り当てるしかない。巨大な官僚機構は確かにギリギリの統制経済を上手く維持していたが、それで物質的制約は超えられないしやがては恫喝以外の手段を持たなくなった。今一つ触れたいのはナチスなりの合理性という点だ。確かに根本で人種差別イデオロギーに囚われていたものの、只の狂人が寄り集まってこれほど戦争を続けられはしない。「狂信者にだって(いや狂信者であればなおさら)自分の狂信を実現するための計算高さと合理性が必要なのだ。」(訳者あとがきから)。この記事にもあったが、「他者の合理性」というものを理解する姿勢が重要だ。他人の理解し難い行動について、人は早計に愚かさだとか悪意に結び付ける傾向がある。しかしそうして分かり合えない者、更には敵だと認識してしまえば取れる選択肢は少ない。そうではなくたとえ気に入らない相手でもまず価値観の違いを分析しようとする姿勢がなければ、社会はいつまでも同じ事の繰り返しだろう。
夏頃には「表現の不自由展・その後」の一件があり、丁度良い機会なので以前からの「アートとは何か」という疑問を『アートとは何か 芸術の存在論と目的論』また『なぜ脳はアートがわかるのか 現代美術史から学ぶ脳科学入門』を読みながら考えていた。思うに「美術」という日本語や見た目に分かりやすいルネサンス絵画を取り上げがちな習慣が紛らわしくしているものの、そういう昔ながらのアートは諸々あった果てマルセル・デュシャンに粉々にされて、どうなったかと言えば美に限らずあらゆる物事(『泉』の様にメタ的なメッセージも含めて)の表現の追究になったのだろう。後我々の日常世界には元々現代アートが見出した表現がふんだんに使われているのも「分からなさ」の一因らしく思われる。屋上庭園や広い横長の窓を持つ建築は今でもやや新鮮な印象を与えるが、こうした特徴をル・コルビュジエが「近代建築の五原則」として打ち出したのは実に1927年の事だ。現代アートに知識が要るというのはこういう時代感覚を摺り合わせる必要にも起因している気がする。
Vによって「キャラクターとは何か?」が個人的に盛り上がる中、ある原稿を依頼されたのもありキャラクター論に関わる本も色々と読んだ。基本的には個別の作品を読み解釈する現場というより、全体から社会学的洞察を得ようとする立場が多く私には不満だったが、『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』は正に個別の表現からキャラクターの存在性を紐解こうとする点で大いに参考になった。冒頭で長々と書いている考察(この言葉は剰りにインターネットで濫用されていて使うには勇気が要る)はこの辺りに足掛かりを得ている。
ライトノベルについてはアニメが前から好きな『ダンタリアンの書架』をようやく読み始めてやはり面白いという事くらいか。『ブギーポップは笑わない』が祖らしいのだがこの筋の伝奇っぽい作品が自分は一番好みだと思う。(そういえばアニメの項で書かなかったがブギーポップのアニメは非常に面白かった。名前だけは遙か昔から知っていたのだがやはりそれだけの名作なのだろう)
漫画については先に挙げた『まちカドまぞく』の他『アクタージュ』『メイドインアビス』が素晴らしかった。アクタージュは時代劇のエキストラなど思いっきりレベリングパートだと言えばそうかもしれないが、これがジャンプで掲載されているもの面白く思える。百合の民からの評判で読んでみたが、心理描写が丁寧で(というのは各人が出来事に対して何を考え、どういう論理で行動に至るかを推測するに足る情報が鏤められている事と言える気がするがどうなのだろう)単純に物語として面白い。この作品の異様なまでの迫力はキャラクター形態の同一性を揺るがすほどの饒舌な目の描写にある気がするが、時間があればもっと考えたいところだ。『メイドインアビス』は半分くらい黎明卿がどんな碌でなしか知りたいという動機だったが、想像を遙かに超える具合で流石にドン引きという感じであった。

生活

労働については言語処理に関して前々からのアイデアを試すなどして塵芥の様な賃金なりにも利得があったが、酷い財務状況から収益部門に廻され何故かAWS使いになっている。一年や二年で建て直せるとは思えないので愈々転職かという時分だ。(実際のところ世間の賃金水準について大して知らないが。やる気あるのか?)単純に望む生活水準に見合わないというのもあるが、私はそれなりの自由主義者として労働を交換と考えるので、不当な価格での取引は市場を不健全にするという信念もある。とすると賃金以上に働く動機がなく更に上がり難くなる訳だが、そこを埋めるのは恐らくコミュニティとしての価値が一般的なのだろう。その点で本質的な問題は職場の無駄に(※主観)意識高い感じにあって、烏丸千歳や椎名唯華を人間の理想とする私とは決定的に価値観が異なる。適当に働いてそこそこの賃金を得たいのだがなかなか面倒なものだ。
年末に引越をしたが、辺境にある職場の側ではなく推し街の近くにしたのもそういう距離感を考慮している。あと週に何日も行く場所に住むのはまったく面白くないという話もある、折角交通費が出るというのに。引越に関してはまぁ嫌な思い出ばかりなので書く事は少ない。以前に利用したとかいう理由だけで無邪気に信用するのは止めよう(意味的に齟齬があるのに何故よく「辞める」と書かれるのかと思っていたがもしかして「とめる」との区別なのか?)というのが教訓であった。いや多くは単なる情報伝達ミスなので大層な事ではないが。目下は本棚含め収納の不足(部屋の散らかる絶対的な要因がこれだと気付いてきた)と浴室の電燈と換気扇を同時にしか点けられない致命的仕様が問題だ。この後者は交渉して貸し主にやって貰えないものか。寒過ぎて今のところ物理的に塞ぐという手段を強いられている。

まどか

まずは『マギアレコード』第一部の完結がある。この帰趨がいかに時代性を持ちこれまでの『まどか』の文脈をも踏まえたものかは先に書いた。気紛れな上に時間も掛かりがちなので時宜を得た記事を書く事は稀なのだが、これについては良いタイミングだった。(そういえば記事中のケインズの条はWWIだが、先の『ナチス 破壊の経済』によれば「実は東西ドイツのどちらも、ヴァイマル共和国より圧倒的に高い賠償金を1945年以降に支払わされている」らしい)今までのところ、七海やちよが「過去が追いかけてきた」と言う様に第二部はかつて掲げた「大きな物語」の代償に追われる展開となっている。これもセカイ系だとかの「選びっ放し」に対して「その後」を考える批評的な流れを酌む事ができるだろう。相変わらずキャラクター造形も良くて今後も信頼が置けそうに思う。(ミラーズ環境はWアルティメット編成の最盛期など酷いものだったが、精神強化の実装で随分フラットになった気がする)twitterで随時色々と書いているので子細についてあまりここで書きたい事というのは無い。魔法少女ストーリーをやるにはそれなりの心構えが要るので、つい積みがちになるのを改善したいものだ。
書いたものといえば叛逆論もある。これは公開当時に言葉にできなかったものを、六年を経て幾らか掴んだ様に思えてかなり気に入っている。私が「キャラクター心理」と呼ぶものの分析の実践にもなっており、やっとではあるが書けて良かった話だ。とはいえこれで全てが理解されるという事ではないし、また折に触れては観返して暁美ほむらという人物については考えていきたい。