跳慮跋考

興味も思考も行先不明

VTuberの存在性とコンテンツ性

ここまでの記事とはやや毛色が変わるが、キャラクター対パーソナリティの概念があるとかなり見通しが良くなるので、一度VTuberについて触れておく事にする。

三層理論との接続

VTuberの存在性については2018年の時点でナンバユウキの三層理論が提出されている。この論で挙げられているVTuberの構成要素は、簡単に言えば以下の様になるだろう。

  • パーソン:現実に存在する人間。「魂」よりも身体を含めるニュアンス。
  • メディアペルソナ:パーソンの姿がメディアに乗ったもの。VTuberで言えば表情や声、ゲーム操作なども含まれるか。
  • フィクショナルキャラクタ:概念としてのキャラクター。ただVTuberアバターの場合は「造形的性質以上の性質をほとんどもたない」、つまりほぼ視覚的なイメージであって内面を持たないとされている。「ガワ」とほぼ同じニュアンスではないか。(記号的身体がもっと抽象的な概念である事は先に書いた。)

少し指摘しておきたいのが「魂」と「中の人」のニュアンスの違いだ。「魂」と言った場合に焦点は精神面にあるのに対して、「中の人」だと一つの存在としての人間、パーソンを指している。我々は素朴に心身二元論的な人間観を持っているので、魂や精神というと単独では存在し辛く、むしろ身体と一緒になってこそ一つの存在が成立すると考える。一方で人と言ってしまうと既に存在が成り立っているので、別の存在としてキャラクターがあるとどちらかが主でなければ一つの存在にはならないのである。声や動きを生成しているのは人なので、常識的に言えば人の方が主となる。こうして「中の人」という認識をしている限り、VTuberそのもの(「ガワ」と「魂」、記号的身体と人格の融合体)を一つの確立した存在とは捉えられないのだ。初歩的ではあるがこの存在論は説明が難しくもある。

さて三層理論を我々の議論と比較する為に、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』の解釈から得られた図式を改めて、より一般的な言葉を使って示そう。(「肉体」は「身体」との、「内面」は「人格」との差別化をしたかっただけなので、そこの言葉選びに大した含意はない。)

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キャラクターとパーソナリティの図式

ここでメディアペルソナとパーソンはそれぞれ上段の「表現された肉体」(視覚で言えば図像だが、それに限らず任意の感覚情報として射影された肉体)と「概念としての人間」に当たるだろう。フィクショナルキャラクタには下段に「概念としてのキャラクター」があるものの、三層理論においてかなり図像を重視して扱われている事からすると、むしろ我々の図式で言う「表現された(記号的)身体」に近い。すると注目すべきは概念としてのキャラクターの不在だ。

三層理論は三つの「身体」としているのだから、何ら物理的な実体を持たない概念としてのキャラクター、特にその内面が指摘されないのはある意味で当然の帰結だろう。しかし実際のVTuber鑑賞では、このキャラクター解釈的な部分が主軸になる事も少なくない。

この隠れた要素はVTuberアイデンティティの問題にも関わってくる。

そもそも現実の人間であれ、同一性を定義するのは難しい。代表的な立場として身体説と心理説があり、名前の通り身体の連続性に依拠したり心理状態(記憶や思考、性格などの総体)の連続性に依拠したりするものだが、どちらの場合にも簡単な思考実験で難点が指摘できる(精神の交換や複製、詳しくは『現代形而上学』など参照)。我々は結局、昨日と同じ姿だから同じ人なのだろうとか、昨日までの記憶があるから自分は自分なのだろうとか、そういう推定に頼って生きているとも言える。

VTuberの場合に興味深いのはまず身体(ガワ)と心理(魂)が明確に分離している事、名が身体にはっきり紐付いている事、そしてそれにも拘わらずアイデンティティが心理側に強く寄っている事だろう(これは下で述べるパーソナリティ的な存在性の影響が大きいと思われる)。ただ三層理論の空位、概念としてのキャラクターについて注目すると、もう一つの興味深いアイデンティティが浮かび上がる様に思われる。

つまりVTuberが理解されるときの概念としてのキャラクターに当たる部分、特に内面を意識して「キャラクター理解」と呼ぶが、これは物語の登場人物とは違って真の内面(人格)と決定的に異なる内容となるのである。そしてこのキャラクター理解が、VTuberアイデンティティを構成する第三の要素として確固として存在している。キャラクター理解はVTuberの活動の中で形成されてくるという点で明確に歴史的でありながら、また面白おかしい戯画化でもある。パーソナリティ的でもありキャラクター的である、という点でここにこそVTuberの更新を見る事も可能ではないだろうか。(そして次節で中心人物となる月ノ美兎がこの点にも意識的なのは注記に値する。たまごまごを参照、またこの節の論旨はたたむに鋭く示唆されている。)

「ライバー」の誕生

歴史的な観点からすると、「バーチャルライバー」の登場は3Dから2Dへという技術的トレンド以上の意味を持つ。

「ライバー」誕生以前、いわゆる四天王の時代において支配的なのはパーソナリティではなくキャラクターであった。「首締めハム太郎」の様なバズワードは明らかにキャラクター性からの鑑賞が軸であった事を示しているし、また「バーチャル世界」を現実と峻別する姿勢もキャラクターとしての存在性への意識から来るものだったのだろう。(ただ電脳少女シロについては定期的にライブ配信を行っており、その後のアイドル部の展開も含めて一貫したパーソナリティ的コンテンツへの意識が窺われる。)

そうしたキャラクターの時代へ現れたのがにじさんじの「バーチャルライバー」である。

「ライバー」とは(当時主流であった動画ではなく)ライブ配信をメインコンテンツに据えるという意識による命名だと思われるが、では何故YouTuber的な動画コンテンツではなくライブ配信なのか。これを明確に語っている発言は見付けられなかったのだが、恐らくはコストの問題ではないかと思う。動画では編集などの作業にどうしても手間が掛かるが(「1分の編集に1時間」が目安とも言われる)、配信はした分がそのままコンテンツとして成立する。実際には配信でも準備など必要だが労力の差は大きく、初期は公開アプリとする事を意図していたのも考えると(wiki参照、snapshot)、利用者に気軽に活動して貰うならばライブ配信だと考えたのではないだろうか。配信はパーソナリティをコンテンツ化する事により、遥かな低コストを実現する。

ただこうしたパーソナリティ依存のコンテンツは、エンタメの観点からすると徒に密度を下げ「嵩増し」した様にも見える。2DのVTuberが「生主」的などと批判される時には、こうしたコンテンツ性への意識が潜んでいるのではないかと思う。(勿論まず上述の存在性への無理解がある様に思われるが。)

ただ「ライバー」はそうしたパーソナリティのみの存在にはならなかった。最初のライバーの一人に月ノ美兎がいたからだ……と言い切るのは少し大袈裟だろうか。

しかし確かにその影響は絶大に違いない。月ノ美兎は配信画面上でキャラクター(ガワ)が置かれている状況とは異なる、魂(パーソン)の住まう世界を隠さない。これはキズナアイのいる白い世界や電脳少女シロの自室とは違い、現実世界をはっきりと示唆する。「洗濯機の上で配信している」という逸話もそうだが、「これがバーチャルYouTuberなんだよなぁ」と言って月ノ美兎が姿を消す場面が衝撃的だったのはそうした存在性の転換をもたらすものだったからだろう。それはキャラクター的身体が後退し、パーソナリティが前景化する象徴的な瞬間だった。

その存在性は具体的には泉(2018)が分かりやすい。

一方で、にじさんじメンバーの生きるバーチャル地方とは、デジタルというよりほぼ完全にアナログだ。 「JK3人組」とも呼ばれる一期生の女子高生組は、プライベートで撮影した写真もよく見せており、樋口楓はいかにも女子らしいインスタグラムのページも持っている。カフェ巡りや旅の写真が主だが、そこにCGだという説明付けもなく、私たちの現実と同じ在り方をした世界がにじさんじの「バーチャル地方」なのだ。

こうしてライバーはキャラクターではなく人間概念(パーソン)を軸に理解される存在となったが、一方で月ノ美兎の強烈なキャラクター性は鑑賞をキャラクター的な方向に据え置きもした。いや、同時に同期である樋口楓との非常にパーソナリティ的な関係性の「かえみと」が百合として注目され、以降も脈々と様々なライバーへの関係性への視線が生き続けている事を考えると、パーソナリティへの鑑賞が拡大する中でもキャラクターへの鑑賞を維持したと言った方が適切だろう。現在の鑑賞におけるキャラクターの重要性は中村(2020)が指摘している通りである。「芸人」そして「アイドル」というVTuberファンのよく使う言い回しは正にこのコンテンツ性の幅をよく表している。

結果としてVTuberシーン、特にライトなファンからは強いキャラクター性が期待され続ける一方、大半の個人勢は低コストのパーソナリティ的コンテンツに集中している、という需給の不一致がある様にも見える。ただマスに訴えて数字的成長を獲得し続けなければならない、というのはビジネスの思想、もっと言えば資本主義の生んだイデオロギーであって、VTuberである事自体に内包された価値観ではない。「VTuberかくあるべし」という話をするならば、第一に現場から語られなければならないだろう。

結び

VTuberは2D化・配信者化によって先進性を失った、などという2018年初頭の「バーチャルYouTuber」観を引き摺った意見も未だ見られるが、キャラクター論的に言えばVTuberは今も尚、キャラクターとパーソナリティの境界を彷徨う者として興味深い存在であり続けている。

VTuberの在り方についてはnoteなどの場で活発に語られているが、キャラクターとパーソナリティの概念を軸として多くの議論が整理できるものと思う。

文献