跳慮跋考

興味も思考も行先不明

キャラクター論

『すずめの戸締まり』絆によらない救済、子になれなかったダイジン

幸せな明日を願うけど 底なしの孤独をどうしよう*1 死ぬのは怖くない、「生きるか死ぬかなんてただの運」と言い放つ鈴芽の生き様は『天気の子』から更に異なる輝きを見せたが、一方で「ダイジンが可哀相」という素朴な感想はエコロジー的な思想の流れとの齟…

周縁性とエコロジー:『天気の子』の思想と内面

このままだと今年全く何もしていない事になるので『すずめの戸締り』について書こうと思ったが、それにはまず『天気の子』の話をしなければならない。『天気の子』におけるキャラクターの姿を語らずして『すずめの戸締り』を語るなど、どうしても不可能に思…

日常系前史:他者としてのキャラクターとセカイ系

「日常系」は何故生まれたのか。 いや、本当に問うべきは「日常系」という物語の在り方が何故抑圧されて来たのか、という点かもしれない。 神話、民話、小咄や怪談……そうした物語に明確な「メッセージ」や「テーマ」がある事はむしろ少ない。我々の「物語」…

『動物化するポストモダン』における諸概念

社会学的な話はここで追究しているキャラクター論の範疇から外れるが、東浩紀『動物化するポストモダン』には2021年現在から見ても有用な概念がいくつか提示されており、多くの議論がその枠組みに従っている。この記事では改めてそれらを整理し、議論の文脈…

キャラクター演出分析:『スライム倒して300年』よりフラットルテ

「鑑賞におけるキャラクター対パーソナリティ」において「再認と投影」「有限と無限」などの観点からキャラクター(「登場人物」一般に敷衍しても良いと思うが)の鑑賞、あるいは演出のされ方にはキャラクター性とパーソナリティ性の二面があることを見出し…

VTuberの存在性とコンテンツ性

ここまでの記事とはやや毛色が変わるが、キャラクター対パーソナリティの概念があるとかなり見通しが良くなるので、一度VTuberについて触れておく事にする。

鑑賞におけるキャラクター対パーソナリティ

キャラクター(特に伊藤剛の言う「キャラ」として)の記号性はその読まれ方、鑑賞のされ方にどう影響しているのか。

記号的身体と「質感」

前回はキャラクターの記号性について図像の面から検討したが、この議論は図像以外の要素にも適用できるのだろうか。例えばアニメキャラは声(音声)も持っているが、これは現実世界と遜色ない情報量を有している様に思われる。それでもアニメキャラの身体は…

キャラクターの「記号性」について

先の記事(『テヅカ・イズ・デッド』の解釈メモ - 跳慮跋考)で課題としたキャラクターの「記号性」について分析したい。

『テヅカ・イズ・デッド』の解釈メモ

伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』(NTT出版、2005)はよく参照される割にその解釈が一致を見ていない様だ。ここで伊藤剛の「キャラ/キャラクター」についての考えを纏める事で、個人的に決着を附けておきたいと思う。ただ『テヅカ・イズ・デッド』以降の議論…