跳慮跋考

興味も思考も行先不明

周縁性とエコロジー:『天気の子』の思想と内面

このままだと今年全く何もしていない事になるので『すずめの戸締り』について書こうと思ったが、それにはまず『天気の子』の話をしなければならない。『天気の子』におけるキャラクターの姿を語らずして『すずめの戸締り』を語るなど、どうしても不可能に思われるからだ。

エコロジーと社会の正義

『天気の子』の世界設定には基礎として異常気象があるが、これは表面上「正常に戻すべきもの」として描かれる。「晴れ女」業が好評を博したのも東京の人々が天気の是正を望んだからだし、陽菜が人柱になる事を選んだのも(勿論直前の帆高の言葉が後押ししているが)そうした「社会的に正しい事」を選んだ結果と言えるだろう。

一方で作中では、この「異常気象」観念への批判も挟まれる。須賀圭介・夏美が神社へ取材を行った際、神主は「今年みたいな異常気象」という言葉に疑問を投げ掛ける。「そもそも天気とは天の気分。人の都合など構わず、正常も異常も測れん」つまり雨ばかり降っていると人間にとって都合が悪いから「異常気象」と言っている訳で、結局は環境への配慮などではなく人間中心主義に過ぎないという指摘である。神主の口から語られるこの文脈では「ただ仮住まいさせて頂いている」という認識はアニミズム的な日本の自然観として示されているが、同時に「ディープ・エコロジー*1的な環境思想とも共鳴している。

結局陽菜は人柱となる事を止め、3年後の東京は広範囲が水に沈むのだが、「晴れ女」業の顧客だった老婦人はこれに対して「元に戻っただけ」という認識を示す。これも人間ではなく自然を中心としている「仮住まい」の思想だろう。「世界なんてさ、どうせ元々狂ってんだから」と言う須藤圭介もやはり、諦めから異常気象を受け入れる立場にある。「狂ってる」という表現は様々な含みがあるが、ここでは社会の周縁(後述)に近い人間としてやや斜に構えつつも、自然のコントロールを諦める事で人間中心主義(そして子供染みた自己中心的世界観に見える帆高の考え)を否定していると解釈しておこう。

以上を纏めれば、本作には社会における第一の正義として「異常気象を修復すべし」が提示される一方で、第二の正義として「異常気象という認識を改めよ」との視点も提供される。

帆高の行動は普通に違法である場合もあるが、エコロジー的な作品背景にとって重要なこの二つの正義に照らせば、最大の選択として描かれる「陽菜を人柱でなくした事」は第一の正義には反するものの、第二の正義には何ら違反しないものと言えるだろう。新海誠は「ルールを破った彼には彼なりの正義や理念があったかもしれない」*2と観客に想像して貰いたいと述べているが、つまり第二の正義の提示はそうした社会からの受容の姿勢であると言える。

では帆高は陽菜を救い、社会からも受け入れられて万々歳で終わるのか? 決してそうではないのである。

周縁より

新海誠は帆高と陽菜について明確に「貧困層」と述べている*3。帆高は東京に家出して来た身であり、銃刀法違反で完全にお尋ね者となっている。「東京って怖え」の台詞の通り、彼はずっと東京(そして社会)にとって部外者のままだ。

陽菜も孤児として児童相談所から目をつけられているが、「陽菜イコール東京のイメージです」*4とされており帆高と比べると社会へ組み込まれた立ち位置にいる。帆高が東京に来て息苦しくはなくなったと聞いた時の「なんか嬉しい」は東京の人間としてのアイデンティティを持つからであろうし、「晴れ女」業で「自分の役割のようなものがやっと分かった」と喜ぶのも社会の中に居場所を見つけようとする心理が根底にあるのだろう。

東京と田舎、一般社会と貧困層、社会における大人と子供、こうした構図は非対称な対立関係であり、「中心と周縁」*5と総称する事ができる。

「中心」たる社会には上述の二つの正義があり、帆高と陽菜は「周縁」にあってもこの正義に従う事で居場所を手に入れる。特に陽菜は人柱となる事で、第一の正義を通じて社会の中に踏み留まろうとする。自己犠牲を受け入れるほどに社会の価値観を内在化しているのである。

しかし帆高はそれを拒否する。第一の正義を拒否して人柱の宿命から救う事が物語の山場ではあるが、社会の側からは帆高に対して第二の正義の観点から理解が示される。「元に戻っただけ」なのだから、帆高達の選択は社会が結局受け入れるべき変化なのだ。何も責任を感じる必要はない。こうした言説を甘受すれば帆高は、後輩に尋ねられていた様にやはり「札付き」で周縁側の人間ではあるものの、中心の側と価値観を共有し社会の一部に組み入れられる事になる。帆高にとって、それでは駄目なのだ。

「あの時僕は、僕たちは、確かに世界を変えたんだ」「僕は選んだんだ、あの人を、この世界を、ここで生きていく事を」。中心的な言説に巻き取られるという事は、陽菜を救ったという選択をも「間違いだった」と認める事になる。決してそうであってはならない、というのがこの物語の結論なのである。帆高はあくまでも周縁に踏み留まりつつ、世界(社会)と向き合うと決意する。(一方で須藤圭介は正に周縁性を持ちつつも社会に組み込まれた側にいる。)

ここに「世界」という言葉がある点も注目に値する。本作がセカイ系でない、というのはインタビューでも短く触れられている*6通りだが、別に書いた*7様に「セカイ系」において中間項の不在よりも本質的と思われる「ヒロイン‐世界 の結びつき」によって「世界から疎外される主人公」の要素が本作には見出されない事からもそれは確認される。社会の正義に従うのならば「ヒロイン‐世界」から主人公は取り残され、背くのならばヒロインを世界から引き剥がして世界は破滅、というのがセカイ系の二択だ。本作においては二択で言えば一見後者なのだが、「この世界を、ここで生きていく事を」選んだという事は、決して世界を切り捨ててはいないという事なのである。責任はやはりある、自分が「確かに世界を変えたんだ」。世界を選ばない事、中心への編入を拒む事、その責任を直視する事。それが周縁としての二人の誇り高い生き方なのである。

テキストの観点

恐らく第二の正義とは新海誠自身の思想とも近いものだろう。つまり氏は帆高に自分自身の主張を拒否させている。「一見正しくないことをやる主人公」を認めてこの世の「正しさにまつわる息苦しさ」を和らげたい*8、その意図からすれば帆高の拒否はむしろノイズではないか?

説明の一つには倫理性があって、社会の側から「認めてあげる」話をして更にそれを受け入れされるのはなかなかに押し付けがましさが拭えない。そうした自作自演を嫌った結果というのも考えられる。

ただ作品というのは作家の意図を伝えるだけのメディアなのではない。形を得たその瞬間から作品はそれ自体として内部(作品世界)を持ち、内的整合性の下に作家をも拘束するテキスト(テクスト)*9となるのである。つまり帆高は家出で上京した・困窮した・子供という極めつけの周縁性を与えられた時点で、物語が気持ち良く終わるには社会の第二の正義をも拒否する事が運命づけられていたと言える。その結果、或いは作家の意図すら超えて周縁性の中での生き様を輝かせる作品となった。テキスト論・キャラクター論の観点から言えばこれを指摘しない訳にはいかないだろう。

意図を超えて、と言っても決して新海誠の作家性を否定しようという話ではない。氏がその様に物語の出発点を設定し、そして帆高達の言行を丁寧に模索したからこそ、周縁性に纏わる強力な主題がテキストに宿ったと言うべきだ。

作品世界における外面(物理世界)の整合性を追求すればSF的テキストとしての性質を帯びるのと同様、内面(精神世界)の整合性を追求すればキャラクター論的テキストとなる。(それはつまりキャラクターへの読みに応えるテキストであり、日常系がその典型である事は既に述べた*10。)

私がテキスト論的な読みを推すのは第一には作者について知らないと楽しめない作品など大衆娯楽失格だと思うからだが、もう一つには真剣にキャラクターの内面を考える姿勢に繋がるからという点がある。「作者の人そこまで考えてないと思うよ」*11で終わるのではなく、実際考えてない時でさえもその読みを止める理由は何もない。作品世界とは製作の瞬間よりもむしろ鑑賞の瞬間に立ち上がってくるのである。

手元の資料が限られていて議論が不十分な部分もあるかもしれないが、とにかく『天気の子』を観て考えていた事は粗方形にできた様に思う。最後に当時書かれた物で作品理解に取り分け影響を受けた記事を挙げておきたい。

*1:リベラルアーツガイド参照

*2:榎本正樹. 新海誠の世界 時空を超えて響きあう魂のゆくえ. honto版, KADOKAWA, 2021, 79.1 %.

*3:国連広報センター. "『天気の子』新海誠監督に聞く~天気をモチーフにした大ヒット作品、気候変動から受けた衝撃とエンタメにできること~". 国連広報センター ブログ. https://blog.unic.or.jp/entry/2020/01/31/135248, (accessed 2022-12-30). snapshot

*4:榎本正樹. 前掲書, 77.2%.

*5:現代美術用語辞典ver.2.0参照

*6:榎本正樹. 前掲書, 78.1%.

*7:日常系前史:他者としてのキャラクターとセカイ系」参照

*8:榎本正樹. 前掲書, 79.1%.

*9:リベラルアーツガイド参照。「テキスト」「テクスト」という差別化は分かり難い上に日本語ローカルなので個人的には最悪の用語だと思っている。

*10:日常系前史:他者としてのキャラクターとセカイ系」参照

*11:佐倉千代の名言。実際作者の人がそんな風なので氏に非はない。