跳慮跋考

興味も思考も行先不明

年語2021

日記代わりに今年の話をする。

原神

主に前半はこれしかやっていないと言って良い。 元素量システムが(少なくとも日本では)全く認知さえされていないレベルの時に検証をやるのはなかなか楽しかった。

微課金でも不便しないので良いゲームだが、武器を引こうとすると闇に引き擦り込まれるので精神力の有る場合のみと但し書きが付く。(実際磐岩結緑で闇に引き擦り込まれたが刻晴に持たせたかったので後悔はない。霧切りの方が火力出るらしいが、まぁデザインやストーリーが合うし初期のイメージもあるので然程気にはならない。)

キャラクターデザインや技術力は申し分ないし(殆どサーバー障害が無いのは驚異的ですらある)、メインストーリーも盛り上がりどころなどはちゃんと作られているのだが、個別のキャラストーリー(伝説任務)はやや洗練されていないという印象がある。 流行期に浴びるほど観たラノベアニメの個別キャラ回にリテラシーを毒されているかもしれないが、それにしても例えば甘雨ではオーバーワークで頼られる事に存在意義(思想家は何故か「実存」と呼ぶ。実在と紛らわしい)を見出したり、というのはもう少し救いを……と思わずにはいられない。

森下達『ストーリー・マンガとはなにか』の冒頭を読んで思ったが、『ウマ娘』が『FGO』の様に現実世界、オタク的記号体系の外部に依拠するのに対し、原神は飽く迄もその内部に留まろうとする作品と言える。前者が日本か、後者が海外から発しているというのは、オタクのカジュアル化によって日本では最早オタク的記号体系よりも現実世界の方がアクセスしやすい文脈になってしまった、という事態を示唆しているのかもしれない。 個人的には現実世界だって結局「読み解く」という事をしなければならないのだから、別にアクセスしやすい、という感覚は無いのだが……。(Wikipediaで満足だって? 嗚呼リテラシーとは) 何にせよここにはフィクションの持つテクストの確定性というもの(これはインガルデンの「不確定箇所」とは違い表現内容は考えていない)が表出していて面白い。例えばベートーヴェンの伝記はいくつものテクストがあるが、ルドヴィカの物語はただ一つしかない。

VTuber

相変わらず椎名唯華が世界一面白いと思って見ている。例えばタイプ診断では誰が当たりで誰か外れ扱いされているかを把握した上で、いい感じの仮想敵を祭り上げてあたかもその弾圧に反抗するかの如き構図を(ほぼ間違いなく何となくで)作り上げており、天性のエンターテイナーだと改めて思わせられる。ずしりの「ナイス人間」、チュー吉チューリング感電、チュリあれでの上達(最近半ば忘れているが)、動物園vs水族館悪霊ナイスドームなど印象的だったネタが無数にあり、ライフイズストレンジ2のニアミスがときメモGSで実現したりみなとっしぃ(NASS)が久々に邂逅したのも個人的に嬉しかった出来事。

強運(にじさんじリスナーの中で単なる強運から「薄い目を引く」ものへ解釈が移り変わっているのが面白い。個人的には何れにしろ配信者として見せ場を作る意味で強運と思うが)も健在で、性格上試行機会が多いにしてもそれを超越した何かを感じる事もあり不思議である。

また原神をやっているVTuberもよく見るようになったが、聞き取りやすくよく喋りコメントへの反応が良くても同接10、20程度という事も多く、レッドオーシャンと言うべきかマーケティングでどうにかなる部分なのか。趣味でやっている個人ならば別に良い、むしろ私は登録者2倍とか無為な耐久配信をしていると見る気が無くなるタイプなのだが(しかし案外上昇志向のある個人Vが多く見られる)、企業所属となるとそうも行かぬだろうから頑張って欲しいと念じるばかりである。

キャラクター論

原神ばかりしてられんと思ってまた色々読んだり考えたりして、孫引きの解消など時間が掛かって(2005年の号を取り寄せたら2015年が来て返品という面倒があった)今年に間に合わなかったが日常系の話を書いて愈々「関係性」に直面しそうな情勢となっている。

今年公開したのは実践例や「大きな物語」周りの整理だが、去年のものを見ると記号性、記号的身体、キャラクターとパーソナリティ、という重要概念を論じていてなかなか悪くない仕事と自認する。

そう言えば一昨年に言及した「ある原稿」は結局立ち消えとなったものの、キャラクター論として個人的に色々書く契機になったのでまぁ良しという気持ちでいる。抑々他人への期待値が無に等しいという点もあろうが。(しかし不動産屋が適当な事を言ったり森喜朗が差別発言したりすると気分を害されるので、職業倫理的なものへの期待はあるのかもしれない。)

キャラクター論というのは極個人的な動機、つまり「まどか☆マギカの本質はストーリー的なものではなくキャラクター的なものである」という確信を形にしたいという思いがあるが、私の熱意関心が続いていれば来年中に一定の達成を見そうな進捗にある。(シンボリズム)AI、ベーシックインカム(でなくても良いがその手の資本主義の更新)など気にしている分野はあるが、その時にならないと何をしているかは判らない。

アニメ

あまり量観たとは言えないが、異世界転生物を比較検討してみようと思い(初めはランキング上位の奴を適当に観ようと思っていた筈だが)そのジャンルは色々と渉猟した。(異世界スマホとか一部は観た事があった。)実際観ると『賢者の孫』の様にテンプレのイメージに近い作品もあるが、大した共通性は無く「異世界転生」というのは単なるプラットフォームか通りの良い導入と言った程度のものに思われた。

抜群に面白かったのは『無職転生』(第1部)で、Annictに書いた様にクオリティが高く、第7話の冒頭は「これを神作画と呼ばずして何としようか、リミテッドアニメーションの神髄である」の通り。この作品のキャラクター達の魅力はギャップによる訳ではなく細かい芝居の積み重ねだと思われるが、これはパーソナリティ的と呼ぶべきなのだろうか?

また『盾の勇者の成り上がり』は第4話に限って言えばヒロインからの承認というの(宇野常寛が聞いたらめちゃめちゃ罵倒しそうである)を非常に力強く描いていたものの、第5話以降でそれ以上の関係性を読み取る事はできなかった。その絆があれば奴隷関係など要らなくないかと思うのだが。奴隷ヒロインだのNTRだのの広大な領地を見るにつけては「そんなに自己評価0人間が多いのか」と不思議になる。(安易な受容心理の決めつけ!)

異世界転生でない物では『Vivy -Fluorite Eye's Song-』があって、twitterで触れた様に現状のAIの問題点を非常に意識した世界設定となっていて面白い作品だった。 つまり今のAIは単一タスクを達成する事には長けていても、全く別種のタスクとの間で共通な世界モデル(ユークリッド空間とグラフ、というのがその本質と私は考えている。カントにあまり詳しくはないが、『純粋理性批判』で近い話をしている筈だ)を修得し活用する事はできない。そこがAGIとの断絶であり、大して糸口も見えていない訳だが、Vivyではこれを未解決のまま発展させる事で、むしろその単一タスクを存在理由に読み替える。 私の知る限りこうしたAI観を前面に押し出した例は存在せず、「AI表象論」というものがあるとすれば確実に歴史に刻まれるのではないだろうか。(「○○表象論」というのは文化的にどうやってどういう○○のイメージが出来たかの話だが、ここにはあらゆる言葉を入れて学問が作れるので面白い。例えば破壊の表象論……というのも検索するといくつか見つかる。)

アニメというかその原作だが、『彼女がフラグをおられたら』のとんでもない展開(何というか学園ラブコメにSFを一摘み入れようとしたら全部入っちゃったみたいな感じ)が印象に残っていたので原作を最後まで読んだ。全編通して菜波の奥ゆかしさが良いのだが、瑠璃(AI)や神楽のノリも好きであった。あとまおん先生など。 何でもありな世界設定だが、星剣で滅んだ世界の数が判るところなど妙に洒落たものもあり感心する。 ラノベというのは緊張感を出すために無駄なシリアス展開を入れたりするものだが、ほぼ一貫して緩く進行しており良い作品だった。

生活等

労働に関しては現状労働条件が緩い以外に利点が無いので転職すべきなのだが、抑々国内の良い感じ(プロダクト、評判、業績など)の企業を大して知らないので何とも面倒という気分になっている。

コロナの件で完全にリモートになったのは良い点で、自炊が増え圧倒的に生活が向上している。カレー以外に作り置けるレシピがなかなか無いのが少々悩み。(『インドカレーは自分でつくれ』がカレーの原理を書いていて良い本である。)学生は顔を合わせる機会が少なくなって結構嫌らしいが体感しづらいところだ。IOCの邪悪さが明るみに出たり、公衆衛生の格差(欧米メディアがあることないこと言っていたのが印象的である、まぁ「ファクターX」が遺伝的に実在するという研究もあるが)、マスクが果たしてフィクションの中に現れてくるのか(pixivでは見掛けるが)、そんな事ばかり気に掛かる。別に元々私は社会学的視座にそこまで肩入れしておらず、印象の言語化やキャラクターの話がしたいだけなので、そういうの(非日常の日常系化がどうのみたいなの)を無理に考える必要は無いのだが。

原神やキャラクター論に気を取られたり、インゲームの一様さ(それならそれでAUTOではなくスキップを実装して欲しいのだが。その点でブルアカの様なゲーム・ストーリー分離型はテンポ感を損ない難く正当進化と言える)が気になったりしてマギレコをあまり触っていなかったが、そうするとtwitterを触る動機が薄くなってインターネットコミュニティからすら遊離した根無し草になってしまうので困りものである。

最後に今年の実存(繰り返すが実在と紛らわしい)状況を振り返ると、やはりキャラクター論をやり出してからの回復が著しかった。普段「楽しければそれで良い」と公言する身としては遺憾だが、社会的意義を感じる方が精神衛生には良い様だ。(まぁそれも含めての楽しさと言っても良いかもしれない。) 社会的意義がある方が経済的利益に繋がる期待が大きいという面もあるかもしれないが、そんなものは労働で稼げば良いので、やはり労働が諸悪の根源という事になる。