跳慮跋考

興味も思考も行先不明

鑑賞におけるキャラクター対パーソナリティ

キャラクター(特に伊藤剛の言う「キャラ」として)の記号性はその読まれ方、鑑賞のされ方にどう影響しているのか。

キャラクターと再認

「解釈一致」という言い回しがある。

例えばあるキャラ*1の声優がいたとして、その声優の振る舞いが担当しているところのキャラに期待される振る舞いと一致していた、そういう場面の発見が「解釈一致」の瞬間である。

そのキャラが実際にしていた振る舞いではなく(この場合は「原作再現」等と言われる)期待される、というところがポイントで、我々はキャラクター性、キャラの作品内での描写から予期される振る舞いの目録を「解釈」として持ち、その具現化が外部からもたらされる、という構造になっている。

この体験は「キャラクター性の再認」と表現する事ができる様に思われる。キャラクター性(類型性)は我々に予期を与え、その予期が満たされる事がキャラクター鑑賞の基本的な構造なのではないか。キャラそのものに対して「解釈一致」という事は言われ難いが、それはキャラが自らの性向に従って行動する事は当たり前だからだろう。(だからこその「キャラクター性」である……ただ二次創作の場合は事情が違って来るが。)ずっと不仲だった登場人物が円満な最終回の為にいきなり和解したりして「解釈不一致」という事は言われるが、キャラクターというものは解釈不一致の方こそ有標(目につく、指摘すべきもの)なのである。

この「解釈」とは、第一には語られる物語によって形成される。小説なら地の文で言ってしまう事もあり(「親譲りの無鉄砲」等々)、またアニメならば一場面で伝わる描写のパターンが無数にある(何か運ぶときに転けるドジっ子、挨拶に反応の薄い無口系、等々)。しかしこれまでの記事で見てきた様に、キャラはそれ自身の記号的身体によって解釈を引き起こす点が重要だ。第一印象とでも言うべき、オタク的な記号体系からシンプルに導かれた解釈は物語によって様々に発展して行く訳だが、それはまた記号体系そのものをも更新する。こうしたダイナミクス東(2001)綾波レイの系統を示して指摘しているものだが(一方で東は原作と二次創作に「原理的な優劣はない」としているものの、現在ではそうした消費に留まらない「読み」が拡大してきている。この辺りは今や足立(2015)を参照すれば良いのではないかとも思う)、これによりキャラは記号的身体とそこから読まれるものとしての心理を、乖離さないままに共進化させる事ができるのである。

パーソナリティと投影

キャラクター性が常に再現されるものであり、納得感や安心感を与えるものとすれば、逆に驚きや感動を与えるものがパーソナリティだろう。

パーソナリティの体験として典型的なものがアイドルだろうと思うが、この概念は扱いにやや注意を要する。歴史的経緯からして、「アイドル」という言葉には少なくとも二つの面がある。さやわか(2015)が呼び分けているところのメディアアイドルとライブアイドルだ。

昭和の時代にはアイドルとはメディア(テレビ)上で輝く手の届かない存在だった。そしてアイドルは演じられる存在であり、ファンはその虚構性を認識しながら「あえて」応援する様な部分もあったらしい。ただ徐々に「演じられている」自体そのものが顕在化し、パーソナリティそのものが目につく様になる。「アイドル冬の時代」を経てモーニング娘。は遂に、アイドルそのものをドキュメンタリー的な体験を軸に再定義してしまった。そしてAKB48はドキュメンタリーを享受するものから参加するものへと変えた。それがライブアイドルであり、アイドルの体験は一方向から双方向へと転換を遂げた。

ただここで注目したいのはライブアイドル的なコミュニケーションの側面ではなく、個々のアイドルの受け止められ方だ。ドキュメンタリーが本物である為には、まずアイドルの側が真正面からアイドルに向き合わなければならない。アイドルは演じられるものから生きられるものとなり、その生き様こそがパーソナリティを映す。

ではキャラの解釈(キャラクター性)と対比した時、アイドルの体験にどうパーソナリティが関わるのか。その形態をここで「投影」という言葉によって指摘したい。

アイドルのライブ等を通じて成長を見る時、我々はその場でアイドルのこれまでの苦楽を読み取る訳ではない。ライブ以前における様々な振る舞いや、またインタビュー等で語られる思い、それによってアイドルのパーソナリティを酌み取り、アイドル当人の視点から成長等の出来事を見る事で、その価値を遥かに深く理解するのだ。キャラクターにおける解釈と同位なこのパーソナリティ理解を、我々の頭の中から今ここにいるアイドルへと投影する。しかし「再認」と異なるのは、具体的な振る舞いが何ら予期される訳ではない点だ。パーソナリティは開かれており、不確定で常にブレを含む。これは「無限的」と言っても良いかもしれない。

またパーソナリティは時間的でもある。それは一つの歴史であり、様々な出来事が因果関係により結び附いて物語を成している。「あの失敗があったからこそ」「ずっと下積みをしてきたからこそ」成長が感動的になるのであって、その歴史の上ではどんな出来事も一回限りになる。キャラクターが無時間的なのとは反対に、パーソナリティは時間によって成立している。そしてまた時間によって変化する。弱気なアイドルがいつしかリーダーとして貫禄をも持ったとして、キャラクター性は変わってもパーソナリティは揺るがないのである。

生きたキャラクターの為に

さてこの稿は「キャラクター論」の一篇であるから、問いたいのは「キャラクターがパーソナリティ的な体験を実現できるか」である。それはフォースター(1958)が「ラウンドキャラクター」として説いた事とも繋がるが、我々の「キャラクター」は単に「登場人物」ではなく記号的身体を持った存在を指している。その記号性にも拘わらず、いやあるいは敢えて「キャラクター」に留まりながら、パーソナリティ的な何かを手に入れられるのか?

大塚英志的に言えば不可能となってしまうが、勿論ここで言いたいのはそうではない。

まず大塚自身も、少女漫画を取り上げてキャラクターの内面が言葉によって描かれ得る事を指摘している(大塚 1994)。ただ大塚はその後のそうした表現の衰退を見て、記号的身体との乖離が結局は破綻をもたらしたと考えた様だ。

だが伊藤の言う様にキャラの同一性は図像の類似性以外にも見せ方によって提示できるものであり、つまりは内面に合わせて取り替えてしまえば良い。岩下(2013)手塚治虫の少女漫画を分析して、正にこうした身体の取り替えによる複合的な内面の描写が達せられている事を示している。こうした内面の「身体化」とも言うべき表現により「パーソナリティ的な体験」は達せられるだろうか。

やや極端な例かもしれないが、『干物妹!うまるちゃん』(サンカクヘッド、2013-2018)を見てみよう。主人公の土間うまるは家の外では美少女そのものといった描写(美妹)がされる一方で、家では二等身ほどのデフォルメ形態(干物妹)に変貌する。(実際にそのサイズであるかの様な描写があるのは、うまるがきちんとその記号的身体を生きている事の証左と言う事ができる。)これはうまるの心理的なオン・オフの切り替えを身体化した表現だ。それぞれの姿に合わせてうまるの振る舞いは変わるものの、内心としては干物妹の怠惰な思考がほぼ一貫している。だから心理描写として厚みが増す様になっていない、という訳ではなくて、干物妹に寄った顔を見せる事で「本心」の吐露をむしろより効果的に表現し得ている。

またうまるの変身は無時間的だ。その姿は何か強い動機があって変わるものではなく、状況によってコロコロと入れ替わる。こうしたキャラクター的な描写も、ギャグ的な作品の雰囲気によく合致していると言えるだろう。

また『D.Gray-man』(星野桂、2004-)においては、第8巻で仲間の一人リナリー・リーが戦いにより長髪を失ってベリーショートへ変貌する。この戦いはリナリーが自らの戦う理由を強く認識する場面でもあるが、これを機に精神性が決定的に変わるという訳ではない様に思う。そもそもこの作品では状況に合わせてキャラクターの装いがよく変わっており、その様なリアリティの一種として捉えた方が良いだろう。この後リナリーの髪は長い時間を掛けて徐々に伸びていくが、そうしてキャラクター達は各々の時間を刻んで行く。その時間的、パーソナリティ的な姿は重い展開の続くこの作品の雰囲気にやはりよく合っている。

さてここで『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)の暁美ほむらを挙げよう。先の記事の分析を見ると、彼女は本稿での「内面の身体化」を非常によく体現している。そしてそれぞれの姿(そして内面)の関係は時間的でもある。つまり第10話での姿の変化が不可逆的な精神性の変化を伴った様に、それぞれの変化には確たる理由がある。これを因果的と言っても良いだろう。先述のフォースターはストーリーが単なる出来事の羅列であるの対して、その間に因果関係があるものをプロットとした*2。フォースターが語ったのは物語の大局的な観点であるが、我々は逆に個々のキャラクターの側から因果性を見て取る事もできる。プロットによって物語全体が「それからどうなった」式の好奇心を超えた楽しみを宿す様に、キャラクターもまた因果、あるいは動機によってパーソナリティ的な物語性、歴史性を宿す。

まどか☆マギカ』においてはキャラクターの細かな所作の描写も、台詞の語る心理のリアリティに大きく貢献した様に思われる。いわゆる「芝居」と呼ばれる部分であろうが、これを分析するにはまた別の機会が必要だろう。

結び

「キャラクター」と「パーソナリティ」二つの観点から物語の登場人物の鑑賞の在り方について分析し、「内面の身体化」が互いに因果関係を持った複数の姿‐内面について展開されると、キャラクター的な読みに基づきながらパーソナリティ的な体験を得られる可能性が示唆された。ただこのスキームの適用範囲は剰りに狭く、一方で世に魅力的なキャラクターは剰りに多い。正直に披瀝すれば『まどか』への個人的な思い入れを合理化したかったという面も否めないと思う。この先へ進むには、差し当たっては「芝居」の概念が興味深い問題だろうか。また飽くまでも個々のキャラクターに着目するという観点に限界が来れば、早晩「関係性」という魔物にも取り組まなければならないだろう。

文献

*1:以下キャラと言ったりキャラクターと言ったりするが、単に「キャラ」はキャラクターの略語であり、強いて言えば個別の具体的なキャラクターはキャラ、特に総称的な意味合いではキャラクターとしている。

*2:「「王様がおかくれになり、それから王妃様がおかくれになりました」というのはストオリイです。「王様がおかくれになり、そして悲しみのあまり王妃様がおかくれになりました」というのはプロットです。時間の序列は保たれていますが、原因結果の気持がそこに影を投げています。」(フォースター 1958、p.101)

*3:絶版だが、例えば「文学ガイド」で概要を確認できる。