跳慮跋考

興味も思考も行先不明

科学という宗教

「科学って何?」と訊かれたら「二度ある事は三度ある教」と答える、そんな私の科学観の話。

自然の斉一性を信じる宗教

「科学的とはどういう事か」なんて問は勿論科学哲学の永遠のテーマであって、きっぱり答の出るものではないのだが、しかし「科学」の全分野に亘り共通する精神を一言で表せば「確かな知識を得る」事になるだろうと思う。そして現代の科学がその拠り所としているのが経験であり、つまりは「二度ある事は三度ある」なのである。
但しこの原理を全ての分野が使っている訳ではなくて、例えば数学では仮定を厳密にする事で「証明」された(即ち一定の演繹規則に従って仮定から導けると示された)知識を得ているが、これは多くの分野における観察の蓄積→理論の構築という流れの内で理論構築の部分にのみ特化した結果だと言えるだろう。
さて実際「二度ある事は三度ある」か? と訊かれたら、普通の感覚では「そりゃそうだ」となるだろう。落体の法則は何百年も前から検証され続けているし、ニュートン力学は今日も天体の運行を予測している。重力加速度(もっと普遍的なものが好ければ万有引力定数とか)は今までず~っと約 9.8 m/s² だったのだから、明日も同じ値だと考えるのは極めて自然に思われる。
だが何故に自然なのか? その問に人は「昨日まで成り立っていた事が今日も成り立つ」という事がこれまでずっと続いてきたからだ、と答えるかも知れないが、ここから明日という未来についての結論を引き出すには一つの重大な仮定を置かなければならない。それは即ち「昨日に対する今日と今日に対する明日が同じ関係にある」という仮定、より簡潔に言えば「それぞれの時刻に於ける視点の相対性」であって、科学哲学に謂う「自然の斉一性」である。簡単に言ってしまえば、「今日に対する未来は未だ誰も経験していないのだから、何も解る筈が無い」という事だ。これを経験から証明しようとしても、我々は過去の経験しか持ち得ないが故に不可能なのである。「帰納法が何故成り立つか」と訊かれて「今まで成り立っているからだ」と答えたのでは丸っきり循環論法に陥ってしまう。
科学に於ける主張は検証を重ねる事で蓋然性を増していくものだが、自然の斉一性が成り立たなければ検証という過去の経験には意味が無くなってしまう。一方で自然の斉一性は上述の様に証明しようが無いので、結局「科学」とは自然の斉一性を信じ込まねば立ち行かないのである。仮に「宗教」が「信じる事」だとすれば、科学とは即ち「自然の斉一性」を教義に掲げた宗教だと言えるだろう。最初の「二度ある事は三度ある教」はそういう意味である。

とは言え自然の斉一性を「信じる」という表現には、どうにも違和感が拭えないかも知れない。我々にとって明日の世界も今日と同様である事は、剰りにも「当たり前」に思われるからだ。しかし何故「当たり前」なのか?
それは恐らく、生物としての本能的傾向に根差しているのではないだろうか。例えばパブロフの犬で有名な古典的条件付けは、「次にベルが鳴ったらやはり餌が出てくるだろう」という推論が「経験による学習」の結果として働く様になる事を示しているし、より一般にヘッブ則に従うシナプス可塑性自体が自然の斉一性に適合した特性と言えるだろう。神経生理学レベルの話を直ちに人間の思考に適用できる訳ではないが、これらの事例は生物そのものに自然の斉一性が刻み込まれている事を確かに示唆している。
しかしだからと言って、直ちに科学が宗教と違うとは結論出来ない。ネアンデルタール人が死者の埋葬を行っていた様に、「検証され得ないものを信ずる」行為もまた非常に歴史を持っているからだ。

そういう訳で、もし宗教が「信じる事」ならば、科学もまた一つの宗教なのである。

科学だけを奉ずる宗教

しかしながら、それでも科学は宗教とは違う、科学は事実に基づいているのだ、なんて異論があるかも知れない。これは「事実」という言葉の使い方が軽率に過ぎるが(キリスト教だって「昔の人がこういう聖書を書いた」という事実に即しているのには違いない)、それでも「事実」という観点は重要だ。事実はどこまでも物事の在り様を述べているだけで、そこには何の価値判断も在り得ないのである。
例えば「隣人を助けるべきか」を事実に即して考えるならば、「隣人を助けると幸福になるか」を調べればよいだろうか。だが「隣人を助けると幸福になる」という事実があったとしても、そこから「隣人を助けるべきだ」という結論を導く為には「幸福になる事をすべきだ」という主張を認める必要がある。そしてこれは事実をいくら調べても答え様の無い問であろう。科学とは本来、人を導かないものなのである。
それに対して宗教は事実がどうかではなく我々がどうすべきか、つまり実践の問に答える点で、科学とは明らかに分かたれている。

しかしここで心霊現象について考えると、本来の科学、科学者の科学とは違った「科学」が見えてくる。
心霊現象というのは一般に再現性が乏しく(期待され難く、と言うべきかも知れない)、経験を蓄積するのが困難である。故に「科学では扱えない(扱い辛い)」が科学者の科学による見解であるが、そこから「扱えないので信ずるべきでない」まで行くと価値判断が発生している。こうした科学至上主義は実践的な命題を含む意味でも宗教的なのだが、この謂わば「科学最強教」は科学者の科学よりも遥かに広く信仰されている様なのである。

科学最強教の教義はやはり「二度ある事は三度ある」であるが、同時に「二度ない事は何でもない」も含意している為、検証可能な事象のみならず「世界の全て」を説く。そしてこの宗教の最も素晴らしい所は「ご利益が必ずある」という点である。人々は科学さえあればそこそこの幸福を継続的に享受できる訳で、これは他の宗教には決してないアピールポイントなのである。
しかし問題は個人が「偶然の不幸」に遭った時に起きる。「神」のいる宗教、「確かな知識」を求めない宗教であれば偶然さえその範疇に収められるのだが、科学最強教はそうではない。こうした場合の救いを与える事は科学最強教には不可能なのである。
我が国に於ける科学最強教の蔓莚と、日本人が精神的繋がり(所謂「絆」など)を重視したり大きな不幸を切欠に(屡々胡散臭い)宗教に嵌まるのは、決して無関係でないと私は思う。