跳慮跋考

興味も思考も行先不明

哲学

この一連の文章は物質的・構成的な「心」の理解を目指すものであるから、「イデア」「神」といった物質とも精神とも乖離した超越的存在には否定的な立場を取る。
例えば「我思う、故に我在り」として自己の存在のみを公理として置いたかにみえるルネ゠デカルトも、「無限にして完全なる神」を通じて「神は誠実であるから、明晰かつ判明に認識されるものは真理である」事を保証し、以て方法論的懐疑に曝された世界を取り戻している。こうした議論はここで追求したいものではない。

哲学の諸分野

哲学の代表的な分野として

  • 形而上学:世界はどの様であるか
  • 認識論:我々はどの様にして知るか
  • 倫理学:我々は何をすべきか
  • 美学:美しいとはどういうことか

等がある(説明はごく大雑把で、私から見たプロトタイプ的な意味を記述しているに過ぎない)。存在論形而上学の一分野とされる。
他にも科学哲学、言語哲学法哲学、等々の特定領域に注目した諸分野が存在する。

ゴットフリート゠ライプニッツ

デカルトからの大陸合理論者に連なるライプニッツは、物事の認識について「分析的命題」と「綜合的命題」の区別を行った。

「分析的命題」とは「述語概念が主語概念の内に含まれているような判断」とされるが、この場合「概念」は性質のたばの様なものを想定していると考えられる。つまり性質 A と B を持つ概念についてであれば、その A や B のみを含む命題が分析的命題という事になる。こうした命題は「矛盾律」、即ちただ矛盾を含むか(整合性があるか)によって、世界の様子に拘わらず必然的に真偽が定まるとした。

これに対して「綜合的命題」は偶然的であり、事実に関する命題である。例えば「豊臣秀吉が天下を統一した」という命題は、その反対の「豊臣秀吉が天下を統一しなかった」であっても矛盾を来さないという点で必然的ではなく偶然的である。こうした命題は「充足理由律」、何故他でもないその事実なのかを説明する十分な理由によって真理となる。(ここには「理由なくして存在なし」という思想が色濃く反映されている。)
しかし決定論的な観点からすれば「矛盾を来さない」という事はなく、世界にこの様な任意性は存在しない筈である。ライプニッツ自身も神の立場からすれば全ては分析的命題になると考えていた。

デイビッド゠ヒューム

ヒュームはイギリス経験論の立場から「因果」概念を批判した。

事象 A と B が何度も継起する時、人間はそこに必然的な繋がり(因果関係)を見出そうとする。しかし経験から分かるのはそれらが連続して起こるパターンだけで、その間の繋がりを直接知覚する訳ではないのである。有限の事例による帰納法は結論に必然性を与えない、と言う事もできる。この議論を自然科学に適用すれば、自然法則というのは全て綜合的命題であり、どんな観察によっても仮説としての尤もらしさが増すに過ぎない。
科学者の実践の場においては、こうした議論は「科学的主張は反証可能性を持つべし」という形に纏められる事が多い。反証の機会が無数にあるにも拘らずそれがなされていない主張は、それに応じた尤もらしさを持つだろう、という具合である。

しかし更にヒュームは帰納法の妥当性にも疑問を投げかける(帰納の問題)。帰納法が何故それらしく思われるかと言えば、それ自体が有限の経験に拠っていると言う他ない。未来も帰納法が有効である保証はどこにもないのである。ここには暗黙裡に「自然の斉一性」、つまり世界は未来にも過去と同じ仕組みであり続ける、という仮定が置かれている。
自然の斉一性を疑っていては科学者は仕事にならないし、この点は哲学者にほぼ一任されていると言ってよいのだろう。
進化的な見地からすれば、人間のこうした思考は正にその斉一性を持つ環境へ適応した結果ではないかと思われる。広範な生物に見られる「条件づけ」はそうした予測可能性の利用を示している。

またヒュームは「事実命題(is/is not)から規範命題(ought/ought not)を導く事はできない」との指摘も行った(ヒュームの法則)。この主張は義務論理(deontic logic)による形式化の下で「純粋な事実命題(存在命題)だけから成る無矛盾な集合からは、論理的に真ではない純粋な規範命題(当為命題)を導くことはできない」(高橋文彦. "キリスト教の「黄金律」と私の研究テーマ". 白金法学会報. 2012, vol. 16.)という定理として証明された様だ。これを受け入れる限りに於いて、倫理学は「価値判断(当為)を導く基本原理は何か」という問いが中心的課題となる。

イマヌエル゠カント

ドイツ観念論の主たるカントは、対象があって認識が成立するのではなく、認識の形式が対象に先立つという「コペルニクス的転回」を経て(尤もデカルトの時点でこうした出発点の反転があるが)、理性から始まる形而上学を展開した。しかしそこでも結局は「物自体」という超越的存在が仮定されており、理性は完全な自立を得た訳ではなかった。

エトムント゠フッサール

カントに於いて依然存在した認識論的な断絶は、フッサールに始まる現象学で遂に解消される。
現象学はただ自己の意識と、意識に与えられたありのままの体験(現象)を出発点に置く。現象につい附してしまう、ありのままの体験以上の解釈を取り払い(現象学的還元)、その体験の構造を追求する事(本質直観)が現象学の営みとなる。

認知文法

二十世紀中頃の、プラトン的で「固い」言語学に反発する認知言語学の一派として、ロナルド・ラネカーは認知文法を提唱した。プラトン的とは即ち、言語を超越的な、人間の活動とは独立に存在するとする考え方である。認知革命は世界の法理に通じるロゴスであった言語を、物質世界での人間の所産へと取り戻した。

内容要件

認知文法では、内容要件として言語というものの要素を厳しく制限している。

(i) 表現の一部として実際に生起する意味的・音韻的・記号的構造
(ii) 認可される構造のスキーマ
(iii) 認可される構造の間のカテゴリー化の関係

(『認知文法論序説』研究社、p.31)
ここで (i) は謂わば終端記号であり、実際の使用場面(事例)から文脈や感覚入力にグラウンディングされた概念が構築される。
経験以外から概念を獲得する過程の一つは、スキーマ化である。複数の概念の共通構造が抽出されて新たな概念、スキーマが生まれる。ここでの「スキーマ」は(本人の考えたほど厳格ではないにせよ)ピアジェに由来する言葉だろう。
またカテゴリー化によって、概念間の関係(これもまた概念である)が形成される。カテゴリーは共通のスキーマの精緻化(=事例化)である場合の他、文脈の共通性(連合)であったり、意味内容の類似性からも発生する。

こうした概念の意味はプロトタイプ的であり、事例や下位概念の中には典型的なものとそうでないものがある。例えば「鳥」ならばスズメ等は比較的「よい例」と判断されるのに対し、ペンギンやダチョウはそうではない。これはカテゴリーの境界が曖昧であるという事でもなくて、「奇数」ならばその境界は明確であるにも拘わらず、3 や 5 が典型的と判断される。(こうした述語によるカテゴリーは非常に自由度が高く、「カテゴリー化」はかなり注意を要する概念であるかもしれない。)

例:「普通に」

「普通」は集合のイメージ・スキーマ(これもまた上述のスキーマ化の産物ではあるが、より図式的であり、その根底には言語というより視覚などの認知システムに由来するモデルが暗示される)を基盤とし、その中でも目立った特徴がない事を意味する。

一般に「目立つ」事は正の評価を与えられる場合が多く(「目立ち」の方が有標となっている)、この価値判断から「普通」には負の評価が附随する。しかし「普通に」と副詞で用いられる場合、これは「~に」というスキーマの精緻化であるが、「~」の部分には尺度のイメージ・スキーマ上での意味附けが要求される。

尺度の上で「目立たない」と言うと、これは最高水準(「非常に」「最高に」)だけではなく最低水準(「微妙に」「僅かに」)でもない、即ち中庸であるという事になる。

ここで特に最低水準との間にある隔たりに注意が向けられる(ラネカーの言う「際立ち」)と、「普通に美味しい」等の肯定的意味合いにも違和感なく使用する事ができる様になる。

スキーマと操作

ジャン・ピアジェは認知発達の議論において「スキーマ」(彼はフランス語で SchèmeシェムSchémaシェマ を区別し、後者は操作性のない図式・イメージに使っている。ここでは慣例的な「スキーマ」の語を、前者を指すものとして用いる)を導入した。

スキーマという概念

スキーマ

知識を体制化する心的な枠組みであり、関連した概念を組み合わせて、意味のあるまとまりを作り出す。

(箱田裕司・都築誉史・川畑秀明・萩原滋『認知心理学有斐閣、p.198)といった曖昧模糊とした定義で述べられる事が多いが、

  • 一つの完結したモデルであり、
  • 限られた要素を持ち、
  • 限られた(しかし拡張可能な)適用範囲を持ち、
  • 一定の操作システムが付随する(ピアジェの言う構造と操作)

という点が本質的である様に思われる。

例えば「掴む」行為のスキーマを考える。このスキーマには「掴むもの」と「掴まれるもの」とでも言うべき要素があり、「掴む」操作は「掴まれるもの」を「掴むもの」へアタッチする。逆に「放す」操作によりこの関係は解消される。
このスキーマが獲得された当初は「掴むもの」が手で、「掴まれるもの」が棒の場合にしか適用できないかも知れない。しかし、球や板など様々なものが「掴まれるもの」に当て嵌められるだろうし、「掴むもの」も足などが可能だろう。こうしてスキーマの適用範囲は拡大する事ができる(同化)。ただしものの形によって掴みやすい部分は異なるので、「掴まれるもの」はある種のパラメータを内包する様になり、それに応じて「掴む」操作も変容する(調節)。

構造

ここで特に注目したいのは、ピアジェがこの「構造」を明確に数学的な意味で用いていた事だ。
「掴む」スキーマならば、「掴む」操作と「放す」操作がそれぞれ心の中でシミュレーションできるだけでは、スキーマが確立されたとは言う事ができない。これらの操作を組み合わせた結果もスキーマ内に完結し、また各操作の逆も存在し、それによりスキーマで表現される限りあらゆる関係性が元に戻らなくてはならない。
ただ現実には特定の状態に対してしか適用できない操作も多く、基本的に群とまでは言い難い。スキーマの構造としては一般に状態遷移図くらいのものが妥当なのではなかろうか。(任意の射が可逆である small category として定義される、groupoid と言えなくもないが。メタファーは果たして準同型/関手と言えるだろうか?)
いずれにせよ可逆性は構造に不可欠な性質であって、頭の中の変容したイメージが元に戻せなくてはスキーマが内在化されたとは言えない。

スキーマの中でも指折りに重要なのは「長さ」や「大きさ」のスキーマだろう。これらは始め「時空間モデル」で述べた様に空間上の物体に対して構築されるが、時間や数量概念の同化によって非常に広範囲に適用される様になる(概念メタファー)。
また集合のスキーマも決定的に重要で、離散的な概念一般がこれを基礎にしている。例えば自然数も集合の基数(要素の数)に起源を持つ。誰もペアノの公理に沿った実装やチャーチ数を数の実体とは考えていないだろう。(これらの違いは数がどの様な内部構造を持つかという事だ。)
ただ 10 以上の要素を心の中で扱うのは難しく(所謂マジックナンバー 7±2)、記号化とそれに対応した操作が必要となる。例えば十進法で自然数を表現することにすれば、加算は最早単なる和集合ではなく、各桁の足し合わせと繰り上げの処理へと変換されなければならない。

時空間モデル

人間は時空間の様子について非常に多様な記号化を行う。

空間

二つの物の位置関係だけでも「接している」「噛み合っている」「重なっている」「乗っている」「入っている」「覆っている」「近い」「離れている」などと言う事ができ、これに「少し入っている」「大きく離れている」など尺度の表現を取り入れる事もできる。これらの表現はそれぞれに空間を分節化しコードするモデルが存在する。
例えば「近い」「遠い」においては距離の尺度がそれであり、「入っている」「出ている」では「箱」と「中身」の二者関係であり、「重なっている」では平面が何層か重なった 2.5 次元的なモデルが基盤となっている。
人間は 2 次元図形ならばある程度任意の形状をイメージする事ができるが、恐らく 3 次元の場合にはその自由度がかなり制限される(ただ私は今のところこの主張に関する研究を見付けられていない)。すると人間の非記号的モデルは結局 2.5 次元空間に殆ど帰結する様に思われる。心的回転などもいくつかの学習された 2 次元形状の連続系列を組み合わせる事で達成されているのではないか。

分節化

空間関係を実装可能なレベルにまで具体化したモデルとして RCC-8 がある。
A と B の二つの領域があるとして、次の様な互いに非交叉の関係に分類する。

分類 意味
DC (Disconnected) A と B が接触していない
EC (Externally Connected) A と B の境界線同士が接している
PO (Partial Overlap) A と B がユークリッド空間内で一部だけ重なっている
EQ (Equal) A と B がユークリッド空間内で完全に同じ領域を占めている
TPP (Tangential Proper Part) A が B の中にあり、かつ B と境界線同士が接している
NTPP (Non-tangential Proper Part) A が B の中にあり、かつ B と境界線同士が接していない
TPPi (Tangential Proper Part Inverse) B が A の中にあり、かつ A と境界線同士が接している
NTPPi (Non-tangential Proper Part Inverse) B が A の中にあり、かつ A と境界線同士が接していない

認知心理学におけるモデルは抽象度が高くてプログラムにまで落とし込む事が難しく、こうしたモデルは非常に有難いのだが、分節化の境界を明確にすると適用が難しくなる場合も多い。例えば「付き添っている」と言ったとき、両者の位置関係は人によって EC だったり DC だが近いという状態だったりするのではないか。あらゆる関係性を単一モデルで分節化しつくそうとするよりは、空間モデルの上に様々な関係性スキーマ(「近い-遠い」「接触している・していない」「入っている・いない」など)が必要に応じて適応されると考えた方が実態に近い様に思われる。

視覚イメージ

V1 では網膜像の構造(任意の二点間に距離が定まっている事が本質的であり、数学的には距離空間の構造と言える)をよく保存しているが、それは処理が進むにつれて失われる。

視覚イメージに関して非常に興味深い障害に半側空間無視(hemi-inattention)がある。例えば左脳の損傷によって右側(視覚の入力は視交叉で半分だけ交換される)の視界が認識されなくなるが、これは今まさに見えているものだけが無視されるのではない。想像上の空間の右側さえも無視されるのである。

ピシアッチとルツァッティ(1978*1)は、ミラノ市をよく知っている彼らの多数の患者に、大聖堂に向って東に面している主要な広場ピアッツァ・デル・ドゥーモ(大聖堂広場)に立って記述するように頼んだ。彼らは広場の中央と大聖堂の西の正面を記述した。彼らは彼らの(想像上の)右側の建物だけ、つまり広場の南側だけを記述した。つぎに彼らは、広場に面している大聖堂の段の上に立って、彼らが見たものを再び記述するように命じられた。彼らは広場の中央部の記述を繰り返し、また広場の西のはじにあり、彼らの前にある建物を報告した。しかし今や彼らは、広場の北側(再び彼らの想像上の右側)の建物を記述した。そして以前に記述した南側の建物をあげるのを怠った。

(J・グレアム・ボーモント『増補版 神経心理学入門』青土社、安田一郎訳、p.148)
更に系列の模写を行う課題では、要素内での無視に加えて系列全体での無視も起こりうる事が報告されている。こうした症例は人が視界にある種の「枠」を持ち、注意によってそれが移動する様なイメージを想起させる。

視覚イメージは完全に「図」として保持されている訳ではなく、言語的な符号化の影響を受ける。例えば曖昧で多義的な図形を記憶して再現する(被験者に記憶から手で描いて貰う)実験では、図形と共に名前を与えると、その名前に図形の細部が引き寄せられる効果が見られる。
かといって完全に記号的であるとは言い難く、例えば立体形状を回転させるにはその回転角に比例した時間が掛かる事が知られている(心的回転)。

視覚イメージは様々な概念の理解にも利用される。
音の周波数や物の価格などを「高い」「低い」と表現するとき、これは尺度の大小を視覚的なイメージに喩える事で表現している(概念メタファー)。尺度という概念はまず空間上の位置として獲得され、それが比喩的に他の概念領域(ドメイン)へ利用されていく事で抽象化され完成するのかも知れない(ピアジェ的な認知発達)。

*1:Bisiach, E., & Luzzatti, C. Unilateral Neglect of Representational Space, Cortex, 14 (1978),129-133. 孫引きですいません……

大脳新皮質

大脳新皮質前頭葉頭頂葉、側頭葉、後頭葉に分けられ、左右で独立している。左右の脳は脳梁などの一部でのみ接続しているが、驚くべき事にこれを全て切断しても(分離脳)日常生活にほぼ支障がない。
感覚情報は次の様に各脳葉へ入力する。

(一般に腹側・背側、吻側・尾側といった表現が使われるが、ここではカジュアルに直立時の位置関係で表現する。)

視覚

視覚情報は後頭葉の V1(一次視覚野)から側頭葉の下部へ向かう腹側視覚経路と、頭頂葉へ向かう背側視覚経路に分かれる。
腹側視覚経路(What 経路とも呼ばれる)の末端に当たる側頭葉では円から星型に至る形状、縞模様などのテクスチャ、また特定の人間の顔にまで及ぶ種々の刺激を検出するニューロン神経細胞)群が存在する。こうした高度な特徴抽出は DNN の画像分類でも自然と発生するという。
背側視覚経路(Where 経路とも呼ばれる)は頭頂葉前部からの身体感覚の情報とも統合され、頭頂葉で何らかの時空間モデルに基づく表現へと変換される。

言語

側頭葉付近には言語中枢が集まっている。
側頭葉の頭頂葉と接する辺りはウェルニッケ野と呼ばれ、言語理解を担っているとされる。
一方で前頭葉の側頭葉と接する辺りにはブローカ野が存在し、発話を担っている。1861 年にポール・ブローカが報告した、「タン、タン」としか話せない患者がこの部位を損傷していた事から名付けられた。
ただ最近はブローカ野が生成文法で言う併合(動詞に主語を与えて節を作る様に、構文木を構築する操作)を行うなど、それほど役割が単純ではない事が指摘されている。

運動

前頭葉頭頂葉の接する部分では、そのどちらにも身体がマッピングされており、頭頂葉が身体感覚の入力を受ける一方で前頭葉は身体運動の命令を行う。前頭葉の前部ではより高度な運動の計画や、身体運動だけではないより長期の行動・出来事を想像して判断を下す機能がある。
大抵の認知課題における前頭葉の活性化は思考(イメージ操作)が身体運動に根差しており、概念操作は物理的操作と通底するというピアジェ的な発達観を支持している様に思われる。

脳の新皮質以前

脳は内側からざっくりと脳幹・間脳、大脳辺縁系大脳新皮質に分けられ、外側ほど新しい、つまり後の時代の生物で進化した構造になっている(勿論単純に層が追加されていった訳ではないが)。

部位 機能
脳幹 生命維持・反射
間脳 単純な感覚情報処理
大脳辺縁系 情動・記憶
新皮質 高次認知、思考能力

また脳幹には小脳が接続しており、運動の円滑化を担っている。後述するように運動の計画・命令自体は新皮質で行われており、小脳はその運動を滑らか・巧くする事に寄与している。

新皮質については別に記すとして、ここではそれ以前の古いシステムについて述べる。

間脳

間脳の内で視床下部は摂食、飲水、性行動などの生命活動を担う。例えば動物実験では腹内側核に満腹中枢があり、外側野に空腹中枢がある事が示唆されている。
空腹中枢は血中グルコース濃度の低下などから「空腹である事」を検知し、生物の摂食行動を駆動する。即ち状況の記述(事実命題)をするべき事(当為命題)に変換する、動機付けの中枢と言える。

大脳辺縁系

扁桃体

大脳辺縁系扁桃体(大脳の内側には大脳基底核と呼ばれる構造群もあり、こちらに分類される事もある)は生物としての価値判断を担う。例えば正常なサルではヘビの模型に対して逃避行動を示すが、扁桃体が損傷したサルの場合はそれが消失する。
扁桃体は「それが何であるか」を判断する腹側視覚経路の終着点にあり、快・不快の観点から刺激の価値判断を行い、視床下部の動機付け機構のサブシステム的に働いている。

海馬

大脳辺縁系の海馬は長期記憶(しかし永続的ではない)を担っている。
神経心理学(脳の損傷から心の機能がどう影響されるか調べたりする)で最も有名な患者の一人に H.M. がいる。彼は 1953 年、癲癇の治療の為に脳の両側で海馬の一部を(扁桃体など周辺部位と共に)切除された。癲癇はよくなったが、一方で彼には重度の記憶障害が残った。
即ち、手術前 2 年ほどの記憶が曖昧になる(逆行性健忘)と共に、それ以降は何も新たに物事を記憶する事ができなくなった(前向性健忘)。ただ人との会話や殆どの知能テストは問題なくこなせた。
これは短期記憶(ワーキングメモリ)が正常に機能している一方、海馬の中長期的な記憶機能が喪失し、永続的な記憶(これは新皮質に形成される?)への移行が不可能になった、ただし永続的な記憶へのアクセス自体は失われていない。という状態と考えられるだろう。

またラットの実験からは、海馬に自己の位置を表現する場所細胞が存在すると示されている。場所細胞は一度活性化すると暫く発火が続くが、このタイミングは海馬全体で見られる周期(θリズム)に対して徐々に早くなる(θ位相歳差)。
人間の場合は明確に場所細胞と言うべきものは見付からないが、記憶機能の存在も考えると海馬では、事象の時系列一般を同様な方法で表現している可能性がある。