跳慮跋考

興味も思考も行先不明

精神力動論

ジグムント゠フロイトは我々が今や日常的に用いている「無意識」の概念を心に見出し、力動的な心理観を展開した。

騎手と暴れ馬

フロイトの提唱した心の構造は「第一局所論」と「第二局所論」に分かれるが、基本的には「騎手と暴れ馬」の比喩で理解できると言ってよい。
人間は暴れ馬の様な制御しがたい本能を持っており、意識(自我)とはそれを何とか宥めようとする非力な騎手に過ぎない、というのがその意味するところである。本能の生む衝動は前意識的、つまり意識しようとすればできるものだが、時に「固着」や「抑圧」によって問題を引き起こす。

「固着」の背景には「衝動は発達する」という考えがある。例えば衝動発達の系列として「遊ぶ」「恋愛」「社会貢献」といったものがあるとしよう(この組み合わせは適当だが、とにかく「遊ぶ」事への衝動は非常に初期から存在するだろう)。ここで「遊ぶ」段階の時期に十分この衝動が満たされないと、ここに衝動が固着する。拘りが生まれると言ってもいいかも知れない。すると最早「遊ぶ」衝動は何をしても満たされる事がなく、いつまでも渇望感に支配されてしまう。よく「ゲーム禁止の反動」と言われる現象は固着によってよく説明される様に思う。

「抑圧」は衝動を無意識下に追いやる力である。外的な抑圧があってそれを無視しようとしたり、自分の中での道徳律によるものだったりするだろう。後者は第一局所論に於いて「自我本能」と呼ばれたが、第二局所論では「超自我」という独立した本能(自我と対立するという意味でここでは本能に含める)に分けられている。抑圧された衝動はエネルギーの澱を作り、捌け口を求めて精神疾患の諸症状を起こすに至る。

フロイトはこうした解釈から、催眠や自由連想法により無意識下の衝動を暴き出し、治療へ繋げる事ができると考えた。これが精神分析の方法論である。第二局所論のエス(イド)と超自我は、本能の内で生理的なものと規範的・社会的なものにそれぞれフォーカスしたものと言える。

フロイトの思想

フロイトは心について決定論の立場を取っていて、例えば言い間違いでもそれは抑圧された本心が垣間見えたものなのだとか、たとえ「思いつき」でもそれが全くの偶然ではありえないとか、夢は無意識下の願望から生じる等の指摘をしている。

フロイトの主張は広範な分野に影響を与えたとはいえ、その全体を心理学的理論であると考えるのは(今のところ)難しい。我々の現在の科学は「抑圧された衝動」等を検証する術を未だ持っていない。ましてユングアドラーの思想を「心理学」などと呼ぶのは甚だ不誠実と言わねばならないだろう。