跳慮跋考

興味も思考も行先不明

身体性から中心性へ

時に身体性が心に不可欠なものとして語られるが、この「身体性」という概念は幾らかの要素に分解できるだろう。ここに於いて物理的な身体が存在する必要は必ずしもない様に思われる。

接地

これは恐らく「マリーの部屋」の思考実験が提起する問題に端を発している。

マリーは白黒の部屋に閉じ込められている。決して外に出る事が許されず、外の世界の知識は監禁者が与えた白黒の本や、外のカメラと繋がった白黒のテレビや、コンピュータ群に繋がった白黒モニターから得た。時が過ぎ、マリーは色や色覚の物理的側面をより多くの知識を得た。最終的に、マリーはその分野の世界的権威となった。更に言えば、彼女は日常の色と色覚に関する全ての物理学的事実を知るに至った。
それでも尚、彼女は外の世界の人々が様々な色を見た時に何を経験するのだろうか、赤や緑を見る事はどんな感じだろうか、と不思議に思っていた。ある日、監禁者は彼女を解放した。彼女は遂に物の本当の色を見られる様になった(そして自分の体の酷い白黒ペイントも洗い落とせた)。彼女は花々に満ちた庭へと歩み出でる。「そうか、これが赤を経験するって事なんだ」と赤い薔薇を見て叫んだ。また芝生を見下ろして「それで、これが緑を経験するって事なんだ」と加えた。

Tye, Michael, "Qualia", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2016 Edition), Edward N. Zalta (ed.) 日本語訳は私です)
つまり体験の本質、「感じ」は知識とは別ではないのかという問題提起になっている。
これに対して私が取りたいのは所謂「旧事実/新様式戦略」で、外に出たマリーが得たのは色の本質ではなく、単に違う様式(モダリティ)での色の現れに過ぎない、というものである。
認知言語学的な立場からすれば、概念の本質は様々なドメイン(意味領域)に結びついた多様な意味であって、例えば赤ならば血や夕日、火等に関連した多様な象徴的意味を帯びている。赤の「感じ」とはこれらの総体であって、たとえ視覚モダリティに大きく依存する色であってもそれが全てではないだろう。

動因の源

身体があるから欲望が生まれる、という類の主張。
これは恐らく知性を純粋理性(事実命題のみを扱う)に限る思考から来ていて、ヒュームの法則に関して述べた通り、当為を導く何らかの原理を導入すればよい。妙な動機を持った人間は幾らでもいるので、問題は動機づけ機構がしっかり働くかどうかにある。

中心性

恐らく「身体性」の核心はこれである。
知性は中心をもって存在する。身体は一つしかなく、同時に一ヶ所にしか存在する事ができない(この点で局所性と言ってもよい)。すると「今何をするか」の判断が必要となり、それぞれの瞬間に於いて行動が唯一に定まっていなくてはならない。

これはコンピュータについて考えてみると面白いかも知れない。ノイマン型コンピュータは単一のプロセッサを持つものとして始まった。マルチタスク化やマルチプロセッサ化による並列性は中心性を損なうだろうか? 人間の脳も処理自体は並列的であり、そうとは思われない。

ここで「側性と分離脳」で取り上げた分離脳に注目すべきだろう。脳梁を切断しても尚人間は日常生活を送る事ができる。中枢の分離は意識の分離をもたらさないのである。
私には「分離脳」に於いてどの様な機能も脳の片方にしか存在しないとは考えられない。言語野が主で反対が従である様な事はなく、機能としてはあらゆるものが両側に存在すると考える。
ここでの意識の統合は、ただ体験の同一性に拠っている様に思われる。つまり「自分」の認識は自分の体験を振り返る事によって形成され、ただ身体によって両半球が個別の体験を得る事が阻止されているに過ぎない。

ジェームスの症例で、「右手で水を出していると、左手がそれを止めてしまう」という出来事は明らかに「自我が損なわれている」という感覚を抱かせるが、これは何故か。
「右手で水を出し、左手の持つコップへ入れた」といった行動との違いは何かと言えば、後から思い出した時に合目的的でなく、一貫性が見いだせないという点だろう。この点で「自我の感覚」とは、ただ「自分の行動を振り返った時に何らかの意図を持っていると解釈できる事」へと限定できるかも知れない。

この様に通時的に見れば、私が「中心性」と言い表しているのは所謂「心理的連続性」である。心理的連続性を検証する事が可能な形で、心がそれぞれの瞬間に唯一に定まる状態をもって存在する事。そこに身体性の本質が見出される。