跳慮跋考

興味も思考も行先不明

古典的諸問題

心(人工知能)には多くの難問が存在するかの如く語られるが、それは実際のところ人間を特別視しようとする近代までの傲慢と怠惰の産物に他ならない様に思われる。神ばかりでなく理性も死に瀕する現代に於いて、これらは既に歴史の一部へ変わろうとしている。

そもそも実際に研究している人々からすれば、どんな原理的「問題」があると言われても目の前の課題の方が余程重要な訳で、知能の片鱗でも再現できる様になってきた現代では見向きされなくなりつつあるとも言える。

それでもこれらの問題を検討する事は、ここまでの議論を適用する試金石として大いに役立つだろう。

フレーム問題

「フレーム問題」はジョン゠マッカーシーとパトリック゠ヘイズにより提起された。明確な定義は無いが、「現実世界には考慮すべき可能性が無数にあり、それらの検討に少しずつでも時間を必要とするので、AIは自らの意思決定に途方もない時間を必要とする」という「杞憂」の様な話がその主旨である。

しかしここでは人間を単なる情報処理装置と見做しているので、AIも人間に倣えばフレーム問題を解決できると考えられる。フレーム問題に於いて想定されているAIの思考と人間の思考はどう異なるのか。

着目すべきは「哲学」で触れた「自然の斉一性」である様に思われる。人間は物が独りでに動かない事を、更に一般的には事象が何の原因も無く起こらない事を知っている。また人間の推論は事例がベースであり、見た事も聞いた事もない事象(それは主に「空想」と呼ばれる)についてはほぼ考慮されない。

またフレーム問題の背景にはデカルト的な主体的・能動的知性というイメージの存在も指摘できる。「自由にして無数の選択肢を持つ自己」ではなく、「エージェントモデル」で述べた様に「入力(現象)により内部状態を変化させ、内部状態に基づいて判断を行う」というリアクティブなモデルでは、寧ろ無限性を導入する事の方が難しいとさえ言える。

シンボルグラウンディング問題

スティーブン゠ハーナッドの提起した「シンボルグラウンディング(記号接地)問題」とは、(言語)記号をどう操作してもその意味には結びつけられないのではないか、という問いである。計算機は「『シマウマ』は縞(のテクスチャ)のある馬だ」と理解できない、等と喩えられる。

しかしこれは知能を純粋な記号処理システムと見做した上での考えであって、シンボリズムとコネクショニズムの間に埋め難き溝があった時代の話である。かつては現実世界(感覚情報)の膨大な次元が記号と結びつけられる事を拒否していたが、今やその間を深層学習が架橋しつつある。グラウンディングは最早現実に「解ける」問題なのだ。

尤もドメイン(解くべき問題)を固定しなければどうする事もできず、ピアジェスキーマを構築する汎用システムには程遠いのが現状ではあるが。

意識のハードプロブレム

古くは心身問題や、哲学的ゾンビ、マリーの部屋といった思考実験も、基本的にこの「感じ(クオリア)が情報処理には還元され得ない」という主張を持っている。しかし「身体性から中心性へ」で少し述べた様に、「感じ」の本質は多様な連想の全体的イメージに過ぎないだろうと思われる。

この「感じ」、あるいは主観体験とは、具体的にどの様なものか。

  • 評価(美しい、面白い、美味しい、……)
  • 動機づけ(ほしい、見たい、食べたい、……)
  • 連想(〇〇に似ている、〇〇のときに見た、……)

こうした現象は確かにその人間でなければ得られないかもしれないが、それは単に独占的であるというだけで、それ以上の何かではない。そしてその感覚が失われると統合失調症に於ける思考伝播や思考挿入といった症状となる。自己とは独占的現象から逆算された虚像に過ぎないのだ。