跳慮跋考

興味も思考も行先不明

意識

意識とは何か。これは構成的な立場からすると「意識は何をするか」という事になる。それは凡そ以下の項目に整理されるだろう。

  • 感じる(主観的体験、現象的意識、感情)
  • 認識する(注意、志向性)
  • 想像する
  • 判断する(意思決定)
  • 自我を持つ(メタ認知、自己意識)

Wikipedia脳科学辞典の記事を参考とした。)

これまでで最初の四つについては凡そ説明をつける事ができたが、最後の「自己意識」についての問題が残っている。

自己意識

自己意識とは何か。これを問う時、人間はどうも「自己」を特別視し過ぎている様に思われる。確かに我々は自己について感覚や記憶など多くのシステムに独占的にアクセスできるが、フロイトが見抜いた様にそれはほんの表層に過ぎない。何故そう思ったか、そう感じたか杳として知れない場合はあまりにも多い。現象学に従ってこの「入力情報そのもの」を現象と呼べば、「自己の感覚」というものもまた現象からの派生に過ぎないと考えた方が自然ではないだろうか。

発達心理の観点からすると「自己と他者」の対立は自明なものではなく、むしろ自他未分離の状態にある新生児は、自分の意のままに動かない存在に相対して初めて「他者」を知る。あらゆる現象は外界・内部という区別を持たず、自己の感覚そのものを引き起こす現象は存在しない。ただ体性感覚、感情、記憶といった現象を、「自己」という一つの存在を仮定する事で説明しているに過ぎないのだ。この仮定が崩壊しうる事は「側性と分離脳」や「解離と自我」で示した通りであり、「自己」というものの難しさは、実際のところこの媒介関係を見過ごしがちな点においてのみ存在する様に思われる。

自由意志

もしかすると「判断する」の部分については説明不足と感じられるかもしれない。そこにこそ「自由意志」が存在し、意識の最も重要にして神聖な領域なのではないか、と。

しかし「自由意志がある」という感覚は、自動的な判断について事後的に「自分が判断した」という感覚を得ているに過ぎない、と説明しても何ら問題ない様に思われる。実際ベンジャミン゠リベットの実験は、意思決定の瞬間(これは被験者の目の前に置かれた円盤の外周を回る光点の位置として測られた)よりも前に脳内で「準備電位」が発生する事を見出している。統合失調症の症状の一つとして「させられ体験」があるが、これもまた「行動の後に続く判断の感覚」が喪失されたものと考える事ができる。

自由意志が「自分が判断した」という感覚に基づくのならば、これも結局のところは自己意識の問題に還元される。全ては事後的な検証の結果に過ぎないのだ。


ここまでの説明に於いて、非物質的なものも量子的なものも何もない。私は心の全てが古典的情報処理の範疇にあるものと信じている。