跳慮跋考

興味も思考も行先不明

推論

概念 X に関する知識は P(X) という命題として表される。推論とは既存の命題から新たに尤もらしい命題を得る操作だと言える。

人間の推論には 3 通りの方式がある。

これらが導く命題は妥当とは限らないが、未知の命題を生成する基本原理として決定的な重要性を持つ。

帰納法

帰納法は既存の命題の一般化を行う。

P(X), in(X, Y) ⇢ P(Y)

ここで in(X, Y) は、X がカテゴリーとしての Y に含まれる事を示す。

この操作が妥当性を持つのは、一般に初め認識されたカテゴリー X が P(·) なる性質を持つ最小のものとは限らない事から来ている。

当然ながらどこまでも一般化できる訳ではないので、カテゴリーを広げ過ぎると妥当性は失われる。例えば哺乳類は皆性別を持つが、生物一般が性別を持つのではない。

演繹法

演繹法は既存の命題の特殊化を行う。

P(X), in(Y, X) ⇢ P(Y)

概念(カテゴリー)が集合であり、P(X) が ∀x, x∈X ∧ P(x) の意であればこれは必ず成り立つのだが、「認知文法」で述べた様に人間の直観的カテゴリーは厳密な集合ではなく、プロトタイプ性等を有している。ここでは集合に関する概念や操作も一つのスキーマとして習得されるものとの考えから、人間の概念システムそのものを集合に依拠して記述するのは避ける事にする。

具体的に(この素朴な)演繹法が誤る場合とは、正にこのカテゴリーとしての概念が集合とは異なる点から発生する。
例えばイチゴは基本的に果物カテゴリーへ分類されるが、一方で果物の特徴とされる「木になる」性質を満たさない。ではイチゴが果物ではないかというと日常的にそうした扱いをする人はいなくて(イチゴが野菜だと言うならば野菜炒めにイチゴが入って出てくる事を想像してほしい)、一種の例外であるという認識になるだろう。

アブダクション

アブダクションは既存の命題をよく説明する命題を導入する。

P(X), P'(X)→P(X) ⇢ P'(X)

一般にアブダクションの定義では「よく説明する」とはどういう事かが問題となるが、ここでは「妥当でなければ棄却すればよい」という方針で運用に頼る事として、推論の原理(新たな命題の根源)としてはこの形式とする。

これは後件肯定と呼ばれる論理的には妥当でない推論と同じ形だが、だからこそ最も創造的でもある。特に大抵の科学理論はアブダクションによって導入される。

例えばアイザックニュートンによる万有引力説「全ての物質は互いに引き合う性質を持つ」は、ヨハネス゠ケプラーによる惑星運動の法則を説明するものとして導入された。これは現在まで通用しており、結果的にアブダクションが妥当な推論であった事になる。

一方で燃焼現象について、ゲオルク゠シュタール等はフロギストン説「可燃性物質は燃焼時に放出される共通の元素を持つ」を導入した。これは錫や鉛といった金属の酸化で質量が増える事等を説明できず、後にアントワーヌ゠ラボアジエによって酸素説へと置き換えられた。

進化心理学

進化心理学は心の特性を進化的に解明しようとする学問だが、その中心的な考えに「進化的適応環境」がある。

人間は百万年以上の長い間、狩猟採集による生活を続けてきた。約一万年前に農耕を始める以前のこの環境が人間の心理的特性を進化させた(進化的適応環境、EEA)とし、それにどう適応しているかという観点から現在の人間の心理メカニズムを調べるのが進化心理学の方法論である。

生きづらさ

進化に説明を求める動機の一つとして、現在の不適応は過去の適応の名残なのではないか、という考えがある。

例えば EEA の環境は変化に富み、食物の供給は安定せず砂糖や脂肪に富んだ食事などありえなかった。故にそれらの過剰摂取へ対処する機構は必要とされず、栄養事情に関して真逆と言っていい現代では糖尿病や肥満といった不適応が現れている。こうした説明が進化的観点からは与える事ができるのである。

またこれは私見だが、所謂「承認欲求」も EEA において社会の成員として認められ、諸々の援助を社会から獲得する為に必要だったのではないか、という風に考えられる。

性差

EEA に於いては男女分業が成立しており、性差はそこでの淘汰圧の違いから発生したと考える事ができる。

例えば空間的認知では、男性の方が構造的な特徴の把握を得意とするのに対して、女性は風景やランドマークといった視覚情報の記憶を得意とする。この差は男性が狩猟で広範囲を動き回る必要があった(適応的だった)のに対して、女性は採集の為に食物の場所や食べ頃を憶える必要があったからだ、という事になる。

他にも嫉妬感情では、男性が肉体関係を咎めるのに対して女性が精神面を咎めるのは、男性側からするとどの子が自分の遺伝子を継いでいるか判らないのに対し、情勢側からすると男性が自分の子供に投資してくれないと困るからだ、という説がある。

尤もこれらはそもそも性差が本質的にどこにあるか、また進化心理学全体に言える事として、それが本当に後天的ではなく先天的なものなのか、という点を究明するのは難しく、濫用を警戒しなければならない論理でもある。

精神力動論

ジグムント゠フロイトは我々が今や日常的に用いている「無意識」の概念を心に見出し、力動的な心理観を展開した。

騎手と暴れ馬

フロイトの提唱した心の構造は「第一局所論」と「第二局所論」に分かれるが、基本的には「騎手と暴れ馬」の比喩で理解できると言ってよい。
人間は暴れ馬の様な制御しがたい本能を持っており、意識(自我)とはそれを何とか宥めようとする非力な騎手に過ぎない、というのがその意味するところである。本能の生む衝動は前意識的、つまり意識しようとすればできるものだが、時に「固着」や「抑圧」によって問題を引き起こす。

「固着」の背景には「衝動は発達する」という考えがある。例えば衝動発達の系列として「遊ぶ」「恋愛」「社会貢献」といったものがあるとしよう(この組み合わせは適当だが、とにかく「遊ぶ」事への衝動は非常に初期から存在するだろう)。ここで「遊ぶ」段階の時期に十分この衝動が満たされないと、ここに衝動が固着する。拘りが生まれると言ってもいいかも知れない。すると最早「遊ぶ」衝動は何をしても満たされる事がなく、いつまでも渇望感に支配されてしまう。よく「ゲーム禁止の反動」と言われる現象は固着によってよく説明される様に思う。

「抑圧」は衝動を無意識下に追いやる力である。外的な抑圧があってそれを無視しようとしたり、自分の中での道徳律によるものだったりするだろう。後者は第一局所論に於いて「自我本能」と呼ばれたが、第二局所論では「超自我」という独立した本能(自我と対立するという意味でここでは本能に含める)に分けられている。抑圧された衝動はエネルギーの澱を作り、捌け口を求めて精神疾患の諸症状を起こすに至る。

フロイトはこうした解釈から、催眠や自由連想法により無意識下の衝動を暴き出し、治療へ繋げる事ができると考えた。これが精神分析の方法論である。第二局所論のエス(イド)と超自我は、本能の内で生理的なものと規範的・社会的なものにそれぞれフォーカスしたものと言える。

フロイトの思想

フロイトは心について決定論の立場を取っていて、例えば言い間違いでもそれは抑圧された本心が垣間見えたものなのだとか、たとえ「思いつき」でもそれが全くの偶然ではありえないとか、夢は無意識下の願望から生じる等の指摘をしている。

フロイトの主張は広範な分野に影響を与えたとはいえ、その全体を心理学的理論であると考えるのは(今のところ)難しい。我々の現在の科学は「抑圧された衝動」等を検証する術を未だ持っていない。ましてユングアドラーの思想を「心理学」などと呼ぶのは甚だ不誠実と言わねばならないだろう。

感情モデル

感情を整理分類しモデル化したものとして幾つか有名なものがある。

エクマンの基本表情

感情自体ではなく表情(感情の顔による表現)だが、ポール゠エクマンは欧米、日本、スマトラ等の多様な文化間で「喜び(happiness)」「悲しみ(sadness)」「怒り(anger)」「恐怖(fear)」「嫌悪(disgust)」「驚き(surprise)」の基本 6 表情が通用する事を見出した。

プルチックの感情の輪

ロバート゠プルチックは 「喜び(joy)」「信頼(trust)」「恐怖(fear)」「驚き(surprise)」「悲しみ(sadness)」「嫌悪(disgust)」「怒り(anger)」「期待(anticipation)」の 8 感情を基本とし、これらの強度の違いや混合によって多様な感情を説明しようとした。

File:Plutchik-wheel.svg - Wikimedia Commons より)
混合は正反対にある全ての感情の組み合わせについて以外についてあるとし、隣同士を一次の混合感情、一つ飛ばしを二次、二つ飛ばしを三次と呼んだ。例えば一次の混合感情は次の通りである。

一つ目 二つ目 混合
喜び(joy) 信頼(trust) 愛(love)
信頼(trust) 恐怖(fear) 服従(submission)
恐怖(fear) 驚き(surprise) 畏怖(awe)
驚き(surprise) 悲しみ(sadness) 失望(disappointment)
悲しみ(sadness) 嫌悪(disgust) 悔恨(remorse)
嫌悪(disgust) 怒り(agner) 軽蔑(contempt
怒り(anger) 期待(anticipation) 攻撃性(aggressiveness)
期待(anticipation) 喜び(joy) 楽観(optimism)

ただ、この 8 感情はやや統一性を欠く様に思われる。例えば信頼や嫌悪は対象が無くては成立しないが、喜びや怒りは自発的に発生しても違和感がない。驚きが持続するという事はないが、他は継続して感じ続ける事もありうる。心それ自体の志向性に拘わらない状態、という意味に於いては次がより尤もらしく思われる。

ラッセルの円環

プルチックでも対立軸が現れているが、ジェームズ゠ラッセルの円環モデルでははっきりと「覚醒(arousal)-眠気(sleepiness)」「快(pleasure)-不快(unpleasure)」の二軸によってモデル化されている。

Russell, James. (1980). A Circumplex Model of Affect. Journal of Personality and Social Psychology. 39. 1161-1178. 10.1037/h0077714. の Figure 4)
様々な感情はこの二次元平面に乗った円環上に同定され、例えば覚醒・快ならば興奮、覚醒・不快ならば怒り、眠気・快ならば安らぎ、眠気・不快ならば憂鬱となる。(中心からの距離で感情の強度を表すとすれば円環と言うより円盤になる)
覚醒度と快は明らかに生理的な基盤を持っており、簡潔ながら説得力の高いモデルだろう。

身体性から中心性へ

時に身体性が心に不可欠なものとして語られるが、この「身体性」という概念は幾らかの要素に分解できるだろう。ここに於いて物理的な身体が存在する必要は必ずしもない様に思われる。

接地

これは恐らく「マリーの部屋」の思考実験が提起する問題に端を発している。

マリーは白黒の部屋に閉じ込められている。決して外に出る事が許されず、外の世界の知識は監禁者が与えた白黒の本や、外のカメラと繋がった白黒のテレビや、コンピュータ群に繋がった白黒モニターから得た。時が過ぎ、マリーは色や色覚の物理的側面をより多くの知識を得た。最終的に、マリーはその分野の世界的権威となった。更に言えば、彼女は日常の色と色覚に関する全ての物理学的事実を知るに至った。
それでも尚、彼女は外の世界の人々が様々な色を見た時に何を経験するのだろうか、赤や緑を見る事はどんな感じだろうか、と不思議に思っていた。ある日、監禁者は彼女を解放した。彼女は遂に物の本当の色を見られる様になった(そして自分の体の酷い白黒ペイントも洗い落とせた)。彼女は花々に満ちた庭へと歩み出でる。「そうか、これが赤を経験するって事なんだ」と赤い薔薇を見て叫んだ。また芝生を見下ろして「それで、これが緑を経験するって事なんだ」と加えた。

Tye, Michael, "Qualia", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2016 Edition), Edward N. Zalta (ed.) 日本語訳は私です)
つまり体験の本質、「感じ」は知識とは別ではないのかという問題提起になっている。
これに対して私が取りたいのは所謂「旧事実/新様式戦略」で、外に出たマリーが得たのは色の本質ではなく、単に違う様式(モダリティ)での色の現れに過ぎない、というものである。
認知言語学的な立場からすれば、概念の本質は様々なドメイン(意味領域)に結びついた多様な意味であって、例えば赤ならば血や夕日、火等に関連した多様な象徴的意味を帯びている。赤の「感じ」とはこれらの総体であって、たとえ視覚モダリティに大きく依存する色であってもそれが全てではないだろう。

動因の源

身体があるから欲望が生まれる、という類の主張。
これは恐らく知性を純粋理性(事実命題のみを扱う)に限る思考から来ていて、ヒュームの法則に関して述べた通り、当為を導く何らかの原理を導入すればよい。妙な動機を持った人間は幾らでもいるので、問題は動機づけ機構がしっかり働くかどうかにある。

中心性

恐らく「身体性」の核心はこれである。
知性は中心をもって存在する。身体は一つしかなく、同時に一ヶ所にしか存在する事ができない(この点で局所性と言ってもよい)。すると「今何をするか」の判断が必要となり、それぞれの瞬間に於いて行動が唯一に定まっていなくてはならない。

これはコンピュータについて考えてみると面白いかも知れない。ノイマン型コンピュータは単一のプロセッサを持つものとして始まった。マルチタスク化やマルチプロセッサ化による並列性は中心性を損なうだろうか? 人間の脳も処理自体は並列的であり、そうとは思われない。

ここで「側性と分離脳」で取り上げた分離脳に注目すべきだろう。脳梁を切断しても尚人間は日常生活を送る事ができる。中枢の分離は意識の分離をもたらさないのである。
私には「分離脳」に於いてどの様な機能も脳の片方にしか存在しないとは考えられない。言語野が主で反対が従である様な事はなく、機能としてはあらゆるものが両側に存在すると考える。
ここでの意識の統合は、ただ体験の同一性に拠っている様に思われる。つまり「自分」の認識は自分の体験を振り返る事によって形成され、ただ身体によって両半球が個別の体験を得る事が阻止されているに過ぎない。

ジェームスの症例で、「右手で水を出していると、左手がそれを止めてしまう」という出来事は明らかに「自我が損なわれている」という感覚を抱かせるが、これは何故か。
「右手で水を出し、左手の持つコップへ入れた」といった行動との違いは何かと言えば、後から思い出した時に合目的的でなく、一貫性が見いだせないという点だろう。この点で「自我の感覚」とは、ただ「自分の行動を振り返った時に何らかの意図を持っていると解釈できる事」へと限定できるかも知れない。

この様に通時的に見れば、私が「中心性」と言い表しているのは所謂「心理的連続性」である。心理的連続性を検証する事が可能な形で、心がそれぞれの瞬間に唯一に定まる状態をもって存在する事。そこに身体性の本質が見出される。

側性と分離脳

脳の機能的な非対称性は「意識の座」がどこにあるのか、という問いに重大な示唆を与える。

側性

側性(laterality)とはある機能が、左脳と右脳の片方に偏って存在する事を指す。

側性が顕著なのは言語能力で、右利きの場合は殆どの人間が左脳に言語能力を持っている。左利きの場合も左脳にある事が多いが、一部は側性が見られなかったり右脳にあったりする。これは和田法と呼ばれる、薬剤によって脳半球の活動を一時的に低下させた上で会話できるかテストするという、やや恐ろしい方法によって確かめられる。

空間能力は右脳(言語の逆)に側性化しているとされたりするが、実のところ右脳には外界の絶対座標的な把握が関わるのに対して、左脳には自己中心の相対座標的な把握が関わっているらしい。

分離脳

二十世紀の半ば、癲癇の症状が両半球に広がる事を避ける為に、脳梁などの両半球を繋ぐ組織を切断する交連切断術が行われた。
こうした分離脳の患者は、意外にも日常生活の殆どで困難を示す事がなく、意図的に両半球へ異なる入力を与える様デザインされた実験でもないと影響を見つける事ができなかった。例えばキメラ図形の実験は以下の通りである。

キメラ図形(chimeric figure)は二つの半分の絵が配列されたものからできていて、患者は二つの半分の刺激の間の垂直の分割線を注視する。これらの刺激は輪郭の絵からできていることもあるし、顔のようなもっと複雑な絵の刺激であることもある。ひげをつけ、帽子をかぶった老人の左半分の顔と、ブロンドの女性の右半分の顔から構成されたキメラ図形を見せると、予想されるように、患者は魅力的な若い女性を見たという。左側の言語半球だけが、刺激の右半分について知っているからである。ついでに言うと、患者は図形がキメラ図形だとは知らない。そしえ自分が見たものには、なにも異常な点はないと報告する。それと同時に、左手は、たくさんの顔の選集(そのなかには老人とブロンドの女性の完全な顔も入っている)のなかから、老人の顔だけを選ぶだろう。もし患者に、あなたの反応はおかしいと指摘すると、彼は取り乱したように見え、この混乱を解決しようとして、ヘア・スタイルが、どちらかというと、帽子のように見えたと意見を言うかもしれない。

(J゠グレアム゠ボーモント『増補版 神経心理学入門』青土社、安田一郎訳、p.267-268)
確かに情報は断絶しており、それぞれの脳半球において患者は別々の認識を行っているのである。それだけでなく、それぞれが見たものを選ぶという教示を理解して遂行している。
大抵は言語野の反対で命名や発話が行えないのだが、一方で十分に構文的・意味的な処理は行えるのだという。これは違いが処理のメカニズムというよりも寧ろ、処理対象の形式にある事を示唆する。

ジェームスの症例

上に引いたボーモントは非常に慎重(そして誠実)で、個々の患者の観察を一般化する事に非常に消極的だが、とはいえここで一人の患者ジェームスの例を見る事は大いに参考になるだろう(R゠キャンベル『認知症障害者の心の風景』、本田仁視訳、福村出版、第10章)。
彼は子供の頃に事故で負った傷からかてんかんを発症し、脳梁・海馬交連・前交連を全て切断する手術を受けた。彼は右側の視界(左脳へ入力する)に提示された物しか名前を言えない等の典型的な症状の他、記憶力の低下や地誌的見当識の障害を示した。地誌的見当識の障害とは要するに「頭の中の地図」が失われる事であり、見知った筈の場所でも道が分からず迷子になってしまう。(これはちょっと「日常生活に支障がない」と言ってしまっていいのか気にならないでもない。)

分離脳の協調

さて、分離脳の患者は何故重大な障害を示す事なく生活を続ける事ができるのだろうか。一つには長らく同じ経験を積んだ事での両半球の類似性があるだろうが、もう一つは感覚情報を経由する外界での情報共有があるだろう。
そもそも物事の認識について言えば視覚であれ聴覚であれ両方に入力するし、手で何らかの作業を行う場合ならば、片方の手の動きからその意図を推定する事ができる。外界には通常考えられている以上に人の思考や意図が表出していると言えるかも知れない。また皮質下では眼球運動の伝達も起こるという。
ただこうした迂回的な情報伝達の方略は初めの内から巧く作用する訳ではなく、先のジェームスは「私の左手は、時々出しゃばることがある。左手が現れてきて、私の右手を叩いたりする。右手で水を出していると、左手がそれを止めてしまう。タバコを吸っていると、左手がタバコを口から奪い取って、捨ててしまう。時々、私はそれをコントロールできないことがあり、なぜこんなことが生じるのか理解できない」(同p.252-253)と述べている(他人の手徴候)。

哲学

この一連の文章は物質的・構成的な「心」の理解を目指すものであるから、「イデア」「神」といった物質とも精神とも乖離した超越的存在には否定的な立場を取る。
例えば「我思う、故に我在り」として自己の存在のみを公理として置いたかにみえるルネ゠デカルトも、「無限にして完全なる神」を通じて「神は誠実であるから、明晰かつ判明に認識されるものは真理である」事を保証し、以て方法論的懐疑に曝された世界を取り戻している。こうした議論はここで追求したいものではない。

哲学の諸分野

哲学の代表的な分野として

  • 形而上学:世界はどの様であるか
  • 認識論:我々はどの様にして知るか
  • 倫理学:我々は何をすべきか
  • 美学:美しいとはどういうことか

等がある(説明はごく大雑把で、私から見たプロトタイプ的な意味を記述しているに過ぎない)。存在論形而上学の一分野とされる。
他にも科学哲学、言語哲学法哲学、等々の特定領域に注目した諸分野が存在する。

ゴットフリート゠ライプニッツ

デカルトからの大陸合理論者に連なるライプニッツは、物事の認識について「分析的命題」と「綜合的命題」の区別を行った。

「分析的命題」とは「述語概念が主語概念の内に含まれているような判断」とされるが、この場合「概念」は性質のたばの様なものを想定していると考えられる。つまり性質 A と B を持つ概念についてであれば、その A や B のみを含む命題が分析的命題という事になる。こうした命題は「矛盾律」、即ちただ矛盾を含むか(整合性があるか)によって、世界の様子に拘わらず必然的に真偽が定まるとした。

これに対して「綜合的命題」は偶然的であり、事実に関する命題である。例えば「豊臣秀吉が天下を統一した」という命題は、その反対の「豊臣秀吉が天下を統一しなかった」であっても矛盾を来さないという点で必然的ではなく偶然的である。こうした命題は「充足理由律」、何故他でもないその事実なのかを説明する十分な理由によって真理となる。(ここには「理由なくして存在なし」という思想が色濃く反映されている。)
しかし決定論的な観点からすれば「矛盾を来さない」という事はなく、世界にこの様な任意性は存在しない筈である。ライプニッツ自身も神の立場からすれば全ては分析的命題になると考えていた。

デイビッド゠ヒューム

ヒュームはイギリス経験論の立場から「因果」概念を批判した。

事象 A と B が何度も継起する時、人間はそこに必然的な繋がり(因果関係)を見出そうとする。しかし経験から分かるのはそれらが連続して起こるパターンだけで、その間の繋がりを直接知覚する訳ではないのである。有限の事例による帰納法は結論に必然性を与えない、と言う事もできる。この議論を自然科学に適用すれば、自然法則というのは全て綜合的命題であり、どんな観察によっても仮説としての尤もらしさが増すに過ぎない。
科学者の実践の場においては、こうした議論は「科学的主張は反証可能性を持つべし」という形に纏められる事が多い。反証の機会が無数にあるにも拘らずそれがなされていない主張は、それに応じた尤もらしさを持つだろう、という具合である。

しかし更にヒュームは帰納法の妥当性にも疑問を投げかける(帰納の問題)。帰納法が何故それらしく思われるかと言えば、それ自体が有限の経験に拠っていると言う他ない。未来も帰納法が有効である保証はどこにもないのである。ここには暗黙裡に「自然の斉一性」、つまり世界は未来にも過去と同じ仕組みであり続ける、という仮定が置かれている。
自然の斉一性を疑っていては科学者は仕事にならないし、この点は哲学者にほぼ一任されていると言ってよいのだろう。
進化的な見地からすれば、人間のこうした思考は正にその斉一性を持つ環境へ適応した結果ではないかと思われる。広範な生物に見られる「条件づけ」はそうした予測可能性の利用を示している。

またヒュームは「事実命題(is/is not)から規範命題(ought/ought not)を導く事はできない」との指摘も行った(ヒュームの法則)。この主張は義務論理(deontic logic)による形式化の下で「純粋な事実命題(存在命題)だけから成る無矛盾な集合からは、論理的に真ではない純粋な規範命題(当為命題)を導くことはできない」(高橋文彦. "キリスト教の「黄金律」と私の研究テーマ". 白金法学会報. 2012, vol. 16.)という定理として証明された様だ。これを受け入れる限りに於いて、倫理学は「価値判断(当為)を導く基本原理は何か」という問いが中心的課題となる。

イマヌエル゠カント

ドイツ観念論の主たるカントは、対象があって認識が成立するのではなく、認識の形式が対象に先立つという「コペルニクス的転回」を経て(尤もデカルトの時点でこうした出発点の反転があるが)、理性から始まる形而上学を展開した。しかしそこでも結局は「物自体」という超越的存在が仮定されており、理性は完全な自立を得た訳ではなかった。

エトムント゠フッサール

カントに於いて依然存在した認識論的な断絶は、フッサールに始まる現象学で遂に解消される。
現象学はただ自己の意識と、意識に与えられたありのままの体験(現象)を出発点に置く。現象につい附してしまう、ありのままの体験以上の解釈を取り払い(現象学的還元)、その体験の構造を追求する事(本質直観)が現象学の営みとなる。