パーソナリティ
パーソナリティを体系的に理解しようとする試みは多いが、その中でも広く知られているビッグファイブと、生理的な基盤を強く意識したクロニンジャーの7因子モデルについて述べる。
ビッグファイブ
ビッグファイブ(5因子モデル)では以下の 5 次元でパーソナリティの特徴を表現する。
因子 | 特性 |
---|---|
経験への開放性(Openness to experience) | 知性・好奇心。独創的で新しい経験を好む。 |
勤勉性(Conscientiousness) | 誠実。意志が強く目的に向って邁進する。 |
外向性(Extraversion) | 社交的。外界に対して積極的に働き掛ける。 |
協調性(Agreeableness) | 調和性。共感的で周囲の意向を尊重する。 |
神経症傾向(Neuroticism) | 情緒不安定。危険に敏感で不安を感じやすい。 |
この 5 因子は様々な研究を通じて取捨選択されたもので、多くの文化に共通している事が確認されている。
クロニンジャーの7因子モデル
ロバート゠クロニンジャーはパーソナリティを遺伝的な「気質」の 4 次元と、後天的な「性格」の 3 次元から記述した。
気質 | 特性 | 関係する神経伝達物質 |
---|---|---|
新奇性追求(Novelty Seeking) | 新奇刺激を求めて行動を起こしやすい。 | ドーパミン |
損害回避(Harm Avoidance) | 潜在的なリスクを気にして不安になる。 | セロトニン |
報酬依存(Reward Dependence) | 社会性・対人関係を志向する。 | ノルアドレナリン |
固執(Persistence) | 一つの行動への拘りが強い。 | ? |
クロニンジャーは最初、神経基盤や学習心理学との関聯を意識して固執以外の 3 因子を挙げた。そこでの「報酬依存」は文字通りに正のフィードバックへの感応性を表していたが、後の研究で、報酬依存に含まれていた「固執」が実は独立である事が見えてきた。その為固執には関係する神経伝達物質が想定されていない。
性格 | 志向するもの | 特性 |
---|---|---|
自己志向 | 個人 | 自分自身の目的・価値観に従う。 |
協調 | 社会 | 他者に共感し奉仕する。 |
自己超越 | 宇宙 | 他者や自然と調和し融合的感覚を持つ。 |
ここでの「性格」とは自己定義の問題であり、「誰の為に行動するか」の範囲を示すものと言える。
論理と価値観
人間の知識(命題)は経験や情報伝達によって獲得され、また「推論」で述べた様な推論能力から新たな命題が生み出される。これらは確かとは限らないが、一方で人間の「論理」と呼ばれる能力は、既知の命題から必然的に成立する命題を導く。
形式論理
論理システムは形式論理、中でもゲルハルト゠ゲンツェンの自然演繹としてモデル化される。命題論理の自然演繹であれば、特殊な命題⊥(矛盾)と以下の記号で命題が構成される。
- ¬(否定、~でない)
- ∧(連言、かつ)
- ∨(選言、または)
- →(含意、ならば)
P と Q が前提としてある時 P∧Q が導入される、という様に推論規則が定義される。この推論規則は複合的な命題の構造を説くもので、論理的推論によって導かれる命題は全てその前提にある意味で「含まれている」といってもいいかもしれない。ただこれは人間の直観を全く超越した話であって、直観的に理解している(つもりの)前提から様々に非自明な命題が証明される事は数学の諸問題から知る事ができる。
価値観
「哲学」で述べた様に、「どうであるか」を言う事実命題から「どうすべきか」の当為命題を導く事はできない。「べき」を含む主張には必ず観測事実からは導かれない当為命題(価値判断)が前提とされている筈で、その意味では純粋に「論理的な主張」というものはありえない。
例えば「原子力発電を利用すべきか」という問題を考える。原子力発電の特徴として
等が挙げられるが、これらは事実命題であって、それを「べき」に繋げるのは各人の価値観である。
- コストは低くあるべき
- リスクは小さくすべき
といった広く共有された価値観(常識)によって、ある程度は共通の判断が下されるが、人によって判断の分かれる要素もある。また競合する価値判断のどれを優先するかも異なる。(そもそも「原子力発電は良い」「原子力発電は悪い」というざっくりしたレベルの判断が先行する場合もある。)
価値観も概念に紐付いていると考えれば、経済学で言う効用関数に近いイメージで捉える事ができる。生理的な嗜好・嫌悪は扁桃体などが基盤となっており、またより社会的な善悪は新皮質の働きに帰せられるものと考えられる。
矛盾
進化心理学的に言えば、矛盾は情報伝達における虚偽のシグナルであるから、その検出には十分進化的な価値があると考えられる。
一方で、上に述べた常識(共有された当為命題の集合)は端的に言って無秩序であり、相互に矛盾する内容を含む。(個人的には「弘法筆を選ばず」「弘法も筆の誤り」が共存しているのが印象深い。)
しかし古典論理(排中律を認める体系)では爆発律、つまり ⊥→P「矛盾からは任意の命題が導かれる」が成り立つ。実際に常識の体系からは任意の事が言えるだろうか? これを現実的な文脈に落とし込めば、「フライパンは食べられない、しかし『弘法筆を選ばず』かつ『弘法も筆の誤り』というのはおかしい。よってフライパンは食べられる」といった具合になる。人の感覚からすると、関係のない物事についての矛盾から¬導入(背理法)を用いるのは不自然なのだ。
仮説生成的な推論に於いて人間の思考は自然演繹よりも自由に働くが、一方で論理推論に於いては、より限られた働きをする様に思われる。
推論
概念 X に関する知識は P(X) という命題として表される。推論とは既存の命題から新たに尤もらしい命題を得る操作だと言える。
人間の推論には 3 通りの方式がある。
これらが導く命題は妥当とは限らないが、未知の命題を生成する基本原理として決定的な重要性を持つ。
帰納法
帰納法は既存の命題の一般化を行う。
P(X), in(X, Y) ⇢ P(Y)
ここで in(X, Y) は、X がカテゴリーとしての Y に含まれる事を示す。
この操作が妥当性を持つのは、一般に初め認識されたカテゴリー X が P(·) なる性質を持つ最小のものとは限らない事から来ている。
当然ながらどこまでも一般化できる訳ではないので、カテゴリーを広げ過ぎると妥当性は失われる。例えば哺乳類は皆性別を持つが、生物一般が性別を持つのではない。
演繹法
演繹法は既存の命題の特殊化を行う。
P(X), in(Y, X) ⇢ P(Y)
概念(カテゴリー)が集合であり、P(X) が ∀x, x∈X ∧ P(x) の意であればこれは必ず成り立つのだが、「認知文法」で述べた様に人間の直観的カテゴリーは厳密な集合ではなく、プロトタイプ性等を有している。ここでは集合に関する概念や操作も一つのスキーマとして習得されるものとの考えから、人間の概念システムそのものを集合に依拠して記述するのは避ける事にする。
具体的に(この素朴な)演繹法が誤る場合とは、正にこのカテゴリーとしての概念が集合とは異なる点から発生する。
例えばイチゴは基本的に果物カテゴリーへ分類されるが、一方で果物の特徴とされる「木になる」性質を満たさない。ではイチゴが果物ではないかというと日常的にそうした扱いをする人はいなくて(イチゴが野菜だと言うならば野菜炒めにイチゴが入って出てくる事を想像してほしい)、一種の例外であるという認識になるだろう。
アブダクション
アブダクションは既存の命題をよく説明する命題を導入する。
P(X), P'(X)→P(X) ⇢ P'(X)
一般にアブダクションの定義では「よく説明する」とはどういう事かが問題となるが、ここでは「妥当でなければ棄却すればよい」という方針で運用に頼る事として、推論の原理(新たな命題の根源)としてはこの形式とする。
これは後件肯定と呼ばれる論理的には妥当でない推論と同じ形だが、だからこそ最も創造的でもある。特に大抵の科学理論はアブダクションによって導入される。
例えばアイザック゠ニュートンによる万有引力説「全ての物質は互いに引き合う性質を持つ」は、ヨハネス゠ケプラーによる惑星運動の法則を説明するものとして導入された。これは現在まで通用しており、結果的にアブダクションが妥当な推論であった事になる。
一方で燃焼現象について、ゲオルク゠シュタール等はフロギストン説「可燃性物質は燃焼時に放出される共通の元素を持つ」を導入した。これは錫や鉛といった金属の酸化で質量が増える事等を説明できず、後にアントワーヌ゠ラボアジエによって酸素説へと置き換えられた。
進化心理学
進化心理学は心の特性を進化的に解明しようとする学問だが、その中心的な考えに「進化的適応環境」がある。
人間は百万年以上の長い間、狩猟採集による生活を続けてきた。約一万年前に農耕を始める以前のこの環境が人間の心理的特性を進化させた(進化的適応環境、EEA)とし、それにどう適応しているかという観点から現在の人間の心理メカニズムを調べるのが進化心理学の方法論である。
生きづらさ
進化に説明を求める動機の一つとして、現在の不適応は過去の適応の名残なのではないか、という考えがある。
例えば EEA の環境は変化に富み、食物の供給は安定せず砂糖や脂肪に富んだ食事などありえなかった。故にそれらの過剰摂取へ対処する機構は必要とされず、栄養事情に関して真逆と言っていい現代では糖尿病や肥満といった不適応が現れている。こうした説明が進化的観点からは与える事ができるのである。
またこれは私見だが、所謂「承認欲求」も EEA において社会の成員として認められ、諸々の援助を社会から獲得する為に必要だったのではないか、という風に考えられる。
性差
EEA に於いては男女分業が成立しており、性差はそこでの淘汰圧の違いから発生したと考える事ができる。
例えば空間的認知では、男性の方が構造的な特徴の把握を得意とするのに対して、女性は風景やランドマークといった視覚情報の記憶を得意とする。この差は男性が狩猟で広範囲を動き回る必要があった(適応的だった)のに対して、女性は採集の為に食物の場所や食べ頃を憶える必要があったからだ、という事になる。
他にも嫉妬感情では、男性が肉体関係を咎めるのに対して女性が精神面を咎めるのは、男性側からするとどの子が自分の遺伝子を継いでいるか判らないのに対し、情勢側からすると男性が自分の子供に投資してくれないと困るからだ、という説がある。
尤もこれらはそもそも性差が本質的にどこにあるか、また進化心理学全体に言える事として、それが本当に後天的ではなく先天的なものなのか、という点を究明するのは難しく、濫用を警戒しなければならない論理でもある。
精神力動論
ジグムント゠フロイトは我々が今や日常的に用いている「無意識」の概念を心に見出し、力動的な心理観を展開した。
騎手と暴れ馬
フロイトの提唱した心の構造は「第一局所論」と「第二局所論」に分かれるが、基本的には「騎手と暴れ馬」の比喩で理解できると言ってよい。
人間は暴れ馬の様な制御しがたい本能を持っており、意識(自我)とはそれを何とか宥めようとする非力な騎手に過ぎない、というのがその意味するところである。本能の生む衝動は前意識的、つまり意識しようとすればできるものだが、時に「固着」や「抑圧」によって問題を引き起こす。
「固着」の背景には「衝動は発達する」という考えがある。例えば衝動発達の系列として「遊ぶ」「恋愛」「社会貢献」といったものがあるとしよう(この組み合わせは適当だが、とにかく「遊ぶ」事への衝動は非常に初期から存在するだろう)。ここで「遊ぶ」段階の時期に十分この衝動が満たされないと、ここに衝動が固着する。拘りが生まれると言ってもいいかも知れない。すると最早「遊ぶ」衝動は何をしても満たされる事がなく、いつまでも渇望感に支配されてしまう。よく「ゲーム禁止の反動」と言われる現象は固着によってよく説明される様に思う。
「抑圧」は衝動を無意識下に追いやる力である。外的な抑圧があってそれを無視しようとしたり、自分の中での道徳律によるものだったりするだろう。後者は第一局所論に於いて「自我本能」と呼ばれたが、第二局所論では「超自我」という独立した本能(自我と対立するという意味でここでは本能に含める)に分けられている。抑圧された衝動はエネルギーの澱を作り、捌け口を求めて精神疾患の諸症状を起こすに至る。
フロイトはこうした解釈から、催眠や自由連想法により無意識下の衝動を暴き出し、治療へ繋げる事ができると考えた。これが精神分析の方法論である。第二局所論のエス(イド)と超自我は、本能の内で生理的なものと規範的・社会的なものにそれぞれフォーカスしたものと言える。
感情モデル
感情を整理分類しモデル化したものとして幾つか有名なものがある。
エクマンの基本表情
感情自体ではなく表情(感情の顔による表現)だが、ポール゠エクマンは欧米、日本、スマトラ等の多様な文化間で「喜び(happiness)」「悲しみ(sadness)」「怒り(anger)」「恐怖(fear)」「嫌悪(disgust)」「驚き(surprise)」の基本 6 表情が通用する事を見出した。
プルチックの感情の輪
ロバート゠プルチックは 「喜び(joy)」「信頼(trust)」「恐怖(fear)」「驚き(surprise)」「悲しみ(sadness)」「嫌悪(disgust)」「怒り(anger)」「期待(anticipation)」の 8 感情を基本とし、これらの強度の違いや混合によって多様な感情を説明しようとした。
(File:Plutchik-wheel.svg - Wikimedia Commons より)
混合は正反対にある全ての感情の組み合わせについて以外についてあるとし、隣同士を一次の混合感情、一つ飛ばしを二次、二つ飛ばしを三次と呼んだ。例えば一次の混合感情は次の通りである。
一つ目 | 二つ目 | 混合 |
---|---|---|
喜び(joy) | 信頼(trust) | 愛(love) |
信頼(trust) | 恐怖(fear) | 服従(submission) |
恐怖(fear) | 驚き(surprise) | 畏怖(awe) |
驚き(surprise) | 悲しみ(sadness) | 失望(disappointment) |
悲しみ(sadness) | 嫌悪(disgust) | 悔恨(remorse) |
嫌悪(disgust) | 怒り(agner) | 軽蔑(contempt) |
怒り(anger) | 期待(anticipation) | 攻撃性(aggressiveness) |
期待(anticipation) | 喜び(joy) | 楽観(optimism) |
ただ、この 8 感情はやや統一性を欠く様に思われる。例えば信頼や嫌悪は対象が無くては成立しないが、喜びや怒りは自発的に発生しても違和感がない。驚きが持続するという事はないが、他は継続して感じ続ける事もありうる。心それ自体の志向性に拘わらない状態、という意味に於いては次がより尤もらしく思われる。
ラッセルの円環
プルチックでも対立軸が現れているが、ジェームズ゠ラッセルの円環モデルでははっきりと「覚醒(arousal)-眠気(sleepiness)」「快(pleasure)-不快(unpleasure)」の二軸によってモデル化されている。
(Russell, James. (1980). A Circumplex Model of Affect. Journal of Personality and Social Psychology. 39. 1161-1178. 10.1037/h0077714. の Figure 4)
様々な感情はこの二次元平面に乗った円環上に同定され、例えば覚醒・快ならば興奮、覚醒・不快ならば怒り、眠気・快ならば安らぎ、眠気・不快ならば憂鬱となる。(中心からの距離で感情の強度を表すとすれば円環と言うより円盤になる)
覚醒度と快は明らかに生理的な基盤を持っており、簡潔ながら説得力の高いモデルだろう。
身体性から中心性へ
時に身体性が心に不可欠なものとして語られるが、この「身体性」という概念は幾らかの要素に分解できるだろう。ここに於いて物理的な身体が存在する必要は必ずしもない様に思われる。
接地
これは恐らく「マリーの部屋」の思考実験が提起する問題に端を発している。
マリーは白黒の部屋に閉じ込められている。決して外に出る事が許されず、外の世界の知識は監禁者が与えた白黒の本や、外のカメラと繋がった白黒のテレビや、コンピュータ群に繋がった白黒モニターから得た。時が過ぎ、マリーは色や色覚の物理的側面をより多くの知識を得た。最終的に、マリーはその分野の世界的権威となった。更に言えば、彼女は日常の色と色覚に関する全ての物理学的事実を知るに至った。
それでも尚、彼女は外の世界の人々が様々な色を見た時に何を経験するのだろうか、赤や緑を見る事はどんな感じだろうか、と不思議に思っていた。ある日、監禁者は彼女を解放した。彼女は遂に物の本当の色を見られる様になった(そして自分の体の酷い白黒ペイントも洗い落とせた)。彼女は花々に満ちた庭へと歩み出でる。「そうか、これが赤を経験するって事なんだ」と赤い薔薇を見て叫んだ。また芝生を見下ろして「それで、これが緑を経験するって事なんだ」と加えた。
(Tye, Michael, "Qualia", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2016 Edition), Edward N. Zalta (ed.) 日本語訳は私です)
つまり体験の本質、「感じ」は知識とは別ではないのかという問題提起になっている。
これに対して私が取りたいのは所謂「旧事実/新様式戦略」で、外に出たマリーが得たのは色の本質ではなく、単に違う様式(モダリティ)での色の現れに過ぎない、というものである。
認知言語学的な立場からすれば、概念の本質は様々なドメイン(意味領域)に結びついた多様な意味であって、例えば赤ならば血や夕日、火等に関連した多様な象徴的意味を帯びている。赤の「感じ」とはこれらの総体であって、たとえ視覚モダリティに大きく依存する色であってもそれが全てではないだろう。
動因の源
身体があるから欲望が生まれる、という類の主張。
これは恐らく知性を純粋理性(事実命題のみを扱う)に限る思考から来ていて、ヒュームの法則に関して述べた通り、当為を導く何らかの原理を導入すればよい。妙な動機を持った人間は幾らでもいるので、問題は動機づけ機構がしっかり働くかどうかにある。
中心性
恐らく「身体性」の核心はこれである。
知性は中心をもって存在する。身体は一つしかなく、同時に一ヶ所にしか存在する事ができない(この点で局所性と言ってもよい)。すると「今何をするか」の判断が必要となり、それぞれの瞬間に於いて行動が唯一に定まっていなくてはならない。
これはコンピュータについて考えてみると面白いかも知れない。ノイマン型コンピュータは単一のプロセッサを持つものとして始まった。マルチタスク化やマルチプロセッサ化による並列性は中心性を損なうだろうか? 人間の脳も処理自体は並列的であり、そうとは思われない。
ここで「側性と分離脳」で取り上げた分離脳に注目すべきだろう。脳梁を切断しても尚人間は日常生活を送る事ができる。中枢の分離は意識の分離をもたらさないのである。
私には「分離脳」に於いてどの様な機能も脳の片方にしか存在しないとは考えられない。言語野が主で反対が従である様な事はなく、機能としてはあらゆるものが両側に存在すると考える。
ここでの意識の統合は、ただ体験の同一性に拠っている様に思われる。つまり「自分」の認識は自分の体験を振り返る事によって形成され、ただ身体によって両半球が個別の体験を得る事が阻止されているに過ぎない。
ジェームスの症例で、「右手で水を出していると、左手がそれを止めてしまう」という出来事は明らかに「自我が損なわれている」という感覚を抱かせるが、これは何故か。
「右手で水を出し、左手の持つコップへ入れた」といった行動との違いは何かと言えば、後から思い出した時に合目的的でなく、一貫性が見いだせないという点だろう。この点で「自我の感覚」とは、ただ「自分の行動を振り返った時に何らかの意図を持っていると解釈できる事」へと限定できるかも知れない。
この様に通時的に見れば、私が「中心性」と言い表しているのは所謂「心理的連続性」である。心理的連続性を検証する事が可能な形で、心がそれぞれの瞬間に唯一に定まる状態をもって存在する事。そこに身体性の本質が見出される。